追悼

高橋信孝先生を悼む

山口 五十麿

Isomaro Yamaguchi

東京大学名誉教授

Published: 2016-09-20

東京大学名誉教授,日本農芸化学会名誉会員 高橋信孝先生は,平成28年5月30日午後11時過ぎ,奥様一枝様に見守られながら,肺炎のため静かに86年の生涯を閉じられました.9年前,前立腺がんを患っておられることが明らかになったとのことですが,その後も一門の集まりでは元気なお顔をお見せになっておられ,このように早く先生の訃報に接することになるとは,ごく最近まで思いもよりませんでした.

ご指導いただいた一門の一人として,謹んで先生のご冥福をお祈り申し上げつつ,追悼の一文をしたためさせていただきます.

先生は,昭和5年1月3日,2男1女の次男として誕生されました.お父様は東京医科歯科大学教授でいらっしゃいました.先生は,その生涯を通して東京都杉並区荻窪にお住まいになられましたが,そのお庭で栽培されていた植物の中には,ジベレリン(GA)の研究材料に用いられ,いくつかの論文を生み出したものもありました.

昭和23年,東京大学農学部に入学され,住木諭介教授が担当されていました農芸化学科農産物利用学研究室で研究者としての第一歩を踏み出されました.住木先生の熱いご指導にたいへん感銘を受けられたことが,高橋先生のお話の中で,折に触れうかがわれました.丸茂晋吾名古屋大学名誉教授も同研究室に在籍されており,生涯にわたるお二人の交流もここで始まったとお聞きしました.

当時,住木研究室では,GAの構造決定において,イギリスのICI(Imperial Chemical Industry)グループと熾烈な競争を展開していました.住木研究室のGA研究の中核が高橋先生であり,ICIグループの中核がB. E. Cross博士(後にリース大学教授)とJake MacMillan博士(後にブリストル大学教授)でした.高橋先生とMacMillan教授とは,高等植物からのGAの単離・構造解析など,その後のGA研究においても熾烈な競争を展開されましたが,同時に,家族ぐるみの親密な交友も続けられました.世界のGA研究を牽引しておられたお二人が,ともに懐の深い指導者でおいでだったことがうかがわれます.カリフォルニア大学ロスアンゼルス校のB. O. Phinney教授やオレゴン州立大学のT. C. Moore教授,オランダのワーゲニンゲン大学のG. W. M. Barendse教授とも親交がおありでした.

昭和32年,大学院修了後助手に採用され,指導者への一歩を踏み出されるとともに,約2年間米国インディアナ州パデュー大学に留学され,Roy W. Curtis教授の下でAspergillus nigerの生産する,植物に奇形を生じさせる環状ペプチド,malforminの構造決定に携わられました.

昭和37年には講師に昇任され,同39年,住木先生の後継者の田村三郎教授ご担当の農産物利用学研究室(現在の生物有機化学研究室)の助教授に昇任されました.GAの研究に加え,放線菌の生産する殺虫成分,ピエリシジンの単離・構造決定においても中心的役割を果たされました.当時の特筆すべき研究として,タケノコからのGA19の単離・構造決定が挙げられます.当時大学院生で,後に高橋先生の後継者となられました室伏 旭先生とともに44トンのタケノコから得られた煮汁を出発材料として,14 mgのGA19の結晶を得,構造を明らかにされました.この研究は,当時の天然物化学の頂点に立つ研究の一つとして高い評価を得,後々まで語り継がれています.GA19の結晶化には,一つのエピソードがありました.たいへんな時間と努力を重ねて精製を進められた室伏先生が,粗結晶を得た後,再結晶化の条件について慎重なうえにも慎重に検討されているところへ,高橋先生は,乾坤一擲,再結晶化を進められたとのことです.「慎重であるとともに,躊躇せずに先に進むことも大事だ」と,よく引き合いに出して話しておられました.先生の決断力と行動力は,その後もたびたび発揮され,われわれがお手本としてきたところです.

昭和44年,東京大学農学部農芸化学科に増設されました5講座の一つ,農薬学研究室の教授に昇任されましたが,このときGAグループとピエリシジングループなど,先生を中心に研究を展開していた7名が新講座に移り,卒業論文研究の学生3名を加えた10名で新講座がスタートしました.先生は,農薬学の新しい概念を築くこと,農業生産にかかわる生物の生命現象とその調節機構の解明・制御技術の開発を目指すことを説かれました.

新講座出奔の熱気にあふれていました.セミナーでは,先生を中心に,深夜までホワイトボードをたたきながら,「口角泡を飛ばす」の様で議論を戦わせました.当時の若いメンバーにとって,貴重な経験となりました.

農薬学研究室では,GAを中心とする植物生理活性物質や殺虫成分ピエリシジンに加え,昆虫フェロモンの同定にも研究を広げられ,ニカメイチュウやマツカレハの性フェロモンの同定と類縁体の合成,生合成などを含めた応用展開も進められ,成果を上げられましたが,昭和50年代後半から,植物ホルモンの動態解析や植物の生長生理の解析,活性化合物の化学合成を用いた生長制御に重点を置いた研究を展開されました.植物の生長過程で機能するメカニズムを,化合物を梃に明らかにし,その制御技術の開発を通して食糧生産に貢献することを目指しておられました.イネの生活環におけるGAの局在と動態の解析は,この分野の代表的な成果として評価されました.GAをはじめとする植物ホルモンに加え,呼吸阻害剤,光合成阻害剤の開発,花成誘導物質の探索などを研究対象とされました.さらに,カニクサをはじめとするシダ植物の造精器誘導物質や内生ホルモンの研究,1970年代後半に発見された新植物ホルモンであるブラシノステロイドの研究も加わり,ここでも世界を牽引する成果を上げられました.また,これらの研究を展開する分析技術の開発にも力を入れられました.植物ホルモンのGC-MS分析をわが国で初めて導入されるとともに,高度な分析を可能とする研究環境の整備にも力を注がれました.

昭和54年から平成2年まで,理化学研究所農薬化学第3研究室主任を兼任され,GAの生合成研究を理化学研究所で始められ,優れた成果を上げられました.さらに,インドネシアやオーストラリアとの国際共同研究の代表者として熱帯植物の生理活性物質の探索も進められました.

昭和61~63年には,特定領域研究「植物生活環調節機構の動的解析」の代表者として,研究を牽引されました.その成果は成書『植物生活環の調節』に著されました.

国内,海外から多くの留学生,研究生を受け入れられるとともに,国際共同研究を含む幅広い研究活動を展開されたことに加え,東京大学においては,評議員,農学部長,農学系研究科長として,研究科における専門課程制から専攻制への移行など,組織の整備・拡充にも尽力されました.

平成2年東京大学を定年になられたのを機に,宇都宮大学大学院農学研究科教授に迎えられ,翌平成3年6月,理化学研究所理事に就任されるまで,学生,大学院生の指導に当たられました.東京大学農学部農教授に就任されてから宇都宮大学大学院農学研究科教授を退かれるまでの間に,150名を超える学生,大学院生,研究生を指導されました.また,この間に農薬学や植物科学分野の研究者とともに十指に余る書を著されました.

さらに,日本農芸化学会会長,植物化学調節学会会長,日本農学会会長,国際植物生長調節物質学会会長を歴任されるとともに,平成元年,ジベレリン発見50周年記念国際シンポジウムを東京大学において,平成10年には第16回国際植物生長物質会議を幕張メッセで開催され,わが国の農学,天然物化学,植物科学のみならず,世界の植物科学領域の研究を牽引されました.

上述の数多くの研究業績により,日本農芸化学会農芸化学賞(昭和39年),日本農学賞,読売農学賞(昭和50年),国際植物生長物質学会賞(昭和60年)を受賞されるとともに,平成5年には紫綬褒章を,平成13年には勲二等瑞宝章を受章されました.

研究,教育に情熱を傾けられた先生でしたが,大のスポーツ愛好家でもいらっしゃいました.ソフトボールやハゼ釣り,スキーといった研究室のレクリエーションには率先して参加され,学科の研究室対抗ソフトボール大会で優勝したときなどは,ことのほか喜ばれました.熱烈なジャイアンツファンで,通勤に使われた荻窪駅の売店では,毎朝,先生がお金を取り出されると,「何も言わずとも販売員が報知新聞を手渡してくれる」と仰っておられました.また,シンビジウムなどの洋ラン栽培がご趣味で,楽しそうに栽培のお話をしておられました.

先生の足跡を振り返りますと,研究については言うまでもなく,学部長や学会長のお仕事においても,何事も率先して進められ,バイタリティーに満ちておられました.その行動力がとても印象深く,魅力的でいらっしゃいました.心から先生のご冥福をお祈り申し上げます.