Kagaku to Seibutsu 54(11): 783 (2016)
巻頭言
牡蠣の養殖と宮沢賢治と
Published: 2016-10-20
© 2016 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2016 公益社団法人日本農芸化学会
東京大学では入学後に教養学部で学んでから進学先を決める.10年近く前,教養学部の進学情報センター主催シンポジウム「私はどのようにして専門分野を決めたか」で話をさせられた.そのとき改めて「なぜ農学部の農芸化学科に進学したのか」を振り返ることになった.その原点は「世のため,人のためになることをしなさい」と幼い頃から祖父宮城新昌に言い聞かされ続けていた言葉にあったのかもしれない.
明治17年,沖縄県大宜味村根路銘で生まれた祖父は,沖縄県の国頭農学校に第一期生として入学し,明治38年に同校を卒業した後,ハワイを経て米国ワシントン州シアトルに渡った.シアトルでワシントン州立大学の研究者の指導のもとで牡蠣の養殖について学び「オリンピアオイスター会社」に勤務した.明治44年には,カナダのバンクーバーに移り,「ローヤル漁業会社」を設立して牡蠣養殖事業を始めた.大正2年に日本に帰国後,牡蠣養殖の実体験をもつ民間の技術者として,農商務省所管の水産講習所の研究者とともに研究を進め,大正13年に「牡蠣の垂下式養殖法」を開発した.これは「カキ養殖技術の展開に最も大きな役割を果たした技術開発」と言われている.また,全国を回ってこの技術の普及にも努めた結果,垂下式牡蠣養殖法は広島県や宮城県石巻市で急速に展開普及し,現在のように旬の牡蠣を多くの消費者が楽しめる時代を迎えることができたと言われている.その間「牡蠣種苗の抑制技術の開発」にも成功し,これによって大量の種牡蠣の国外輸出が可能となった.この技術を用いた米国向けの種牡蠣輸出は順調に推移し,戦争中を除く大正12年から昭和53年に終焉するまでの長い間,宮城県産の種牡蠣は米国に輸出されていた.輸出先は米国だけに限らなかった.病気の蔓延によって絶滅の危機に瀕したフランスの牡蠣養殖を救ったのも,昭和42年に輸出された宮城県産種牡蠣であったという.
終戦後,職業軍人であった父は失職し,東京湾での牡蠣養殖に携わることになり,私も小学校1年まで千葉県の海辺で育った.家には東京湾の大きな海図が掲げられ,揺れる牡蠣筏の上を歩いたことや,牡蠣剥き場で働く人たちの手さばきの見事さにみとれていたこと,また焚き火の上に殻付き牡蠣を載せ,ジューと音を立てて殻を開けた牡蠣を口にしたときの美味しさは今でも忘れられない.農学部の水産学科ではなく農芸化学を希望したのは,実は宮沢賢治に魅了されていたからだった.盛岡高等農林を卒業した宮沢賢治の専門は「土壌肥料学」であり農芸化学科だった.高校3年時の進路指導では「女子生徒にしては珍しいね」と言われた.その担任の化学の先生が後に「オリザニンの発見」を上梓された齋藤實正先生であったことも奇遇だった.
昨今,研究資金が応用研究に偏りすぎて基礎研究が疎かになっているとの批判が聞かれる.一方で「社会的要請から研究を眺めることにより,学問的価値の高い基礎研究も生まれる」ということから「出口から見据えた」課題設定が重要だとする声もある.農学はその創成期から食糧・環境・エネルギーという「出口から見据えた」課題設定を続けている分野であり,その結果として基礎研究としても学問的価値の高い成果が得られている.「オリザニンの発見」を例に取るまでもなく「応用から基礎へ,基礎から応用へ」の螺旋状のループで旋回,上昇していくのが農芸化学ではないだろうか.