Kagaku to Seibutsu 54(11): 861 (2016)
書評
豊田真司(著)『有機化学演習Ⅲ―大学院入試問題を中心に』(2016年,東京化学同人)
Published: 2016-10-20
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私の研究室の本棚には,学生時代に購入し40年近く経った今もしばしば利用している書籍が何冊か並んでいる.そのなかに,紙はかなり茶色に変色し,随所に赤色の下線や鉛筆の文字が書き込まれた一冊がある.「有機化学演習—大学院入試問題を中心に—」(湊 宏著,第1版第1刷1978年4月1日発行)である.この年,大学4年生であった私は直ちにこの本を購入して勉強し,大学院入試に備えたのであった.その後,幸いにも有機化学の研究者の道を歩むことができ,大学に職を得てからも,常にこの本は私の傍らにあった.この本から何度となく,講義の定期試験や大学院入試,あるいは種々の資格試験などの作題のためのヒントをもらった.カバーが擦り切れたこの本を手にして思うことは,大学院入試の頃,私なりに精一杯勉強して得た基礎的な知識や経験がその後の研究・教育の基盤になって,現在の私があるということである.
その後,「有機化学演習—大学院入試問題を中心に—」は1995年にII巻が出版され,このたびIII巻が刊行された.前巻が出版されてから20年余,まさに大学院を目指す諸君にとって待望の書である.しかし,本書は決して,新しい問題を収録することによって前巻の不足を補っただけのものではない.前二巻と比較すると,以下に述べる特徴によって,本書はとても親しみやすい演習書になっていることがわかる.第一に,前二巻は各章の最初にその章の基本事項が記載されていたが,本書ではそれを廃し,“問題を解きながら学ぶ”という方針を明確にしたことである.総合問題を除く各章はすべて,「例題」,「解答」,「解説」とそれに続く「演習問題」の形式になっており,たいへん学びやすい構成になっている.第二に,各章に掲げられた例題も基本的に大学院入試問題であり,それを解くことによって,その章の基本事項が確認できるような工夫がなされていることである.前二巻では,著者が作成した“つぎの反応の機構と生成物を示せ”といった形式の問題が,例題として十数題も羅列された章も少なくなかった.私が学生の頃は,有機化学ではできるだけ多くの問題をこなし,多数の反応を記憶すべしといった風潮があったように思う.しかし,有機化学の基礎知識としては単に多くの反応を知っているよりも,重要な反応について,なぜその反応が起こるのかを説明できることのほうがよほど大切であろう.第三の特徴は,問題の解答が非常に丁寧に書かれていることである.これは本シリーズの特徴でもあるが,本書は特に,巻矢印を用いた反応機構や共鳴構造式が“手を抜かずに”詳しく表記されている.これは初学者にとって,たいへんありがたいことである.
これらの特徴から,有機化学の基本事項を確認するために一冊の演習書を必要とする諸君には,私は迷わず本書を薦めたい.本書は大学院の受験準備のために利用できることはもちろんのこと,化合物を中心に章が設けられているため,学部学生が講義で学んだ知識を確認するためにも使うことができる.何十年か後に,どこかである大学教員が,本書によって有機化学の基礎を学んだことを懐かしく思う光景がきっとあるに違いない.