巻頭言

ボイジャー1号の見る景色

Hisashi Yasueda

安枝 寿

味の素株式会社イノベーション研究所

Published: 2016-12-20

1977年9月,宇宙探査機ボイジャー1号が太陽系外惑星および太陽系外探査のために打ち上げられた.そして2015年1月時点で太陽から約195億km離れ,それは光速でも約18時間以上かかるところを飛行し,現在も,地球から最も遠くにある人工構造物となっている.すでに末端衝撃波面を通過し太陽圏を脱出したフロンティアフライヤー・ボイジャーの眼前にはいったいどんな景色が広がっているのだろうか.

1982年,生命の神秘を解き明かすことを夢見て,理学部の遺伝学教室にて私の研究人生はスタートした.そこでは大腸菌が保持する天然プラスミドの複製制御機構の解明に向けて取り組んだ.まだ塩基配列決定法としてはRI標識を用いたMaxam–Gilbert法しかない時代であり,それも日本で数カ所しか実施できない先端技術であったが,自律複製領域の約2.4 kbpのDNA断片を決定するのに約1年かかった.しかし,週ごとに現像されたX線フィルム上に浮かび上がるバンドから,数十塩基ないし運よくば200塩基ほどを読み取り,それを方眼用紙のマス目にG, A, T, Cと1文字ずつ転記し,解読した塩基配列が伸長するだけでワクワクした.充実した配列データベースはもちろんのこと配列解析用ソフトはなく,肉眼でその配列上に出現する奇妙な繰り返し構造や長い逆位反復配列を見つけ出しては,その意味するところを推論し検証して,それらの特徴づけが少しわかるたびに,この解明しつつある「自然の仕組み(理)」は自分が世界で初めて見ている景色であり,大袈裟に言えば,この世の創造主に近づいているような感覚にさえなった.

その後,理解した原理を応用したいとの思いに駆られ民間企業へ就職し,そこで「農芸化学」と出会った.当初は農芸化学の混沌とした世界に戸惑ったが,生物の進化系統樹のように主課題からどんどん派生し変幻自在に展開する学問の面白さを知った.2000年頃,アミノ酸発酵菌の生産性を高める研究にロシアの共同研究者らとともに集中して取り組んだ.生産菌での各遺伝子の発現調整と培養評価を繰り返し,多忙を極めたが,同時にさまざまな議論を戦わせつつも時間に縛られない大切な“ゆとり”もあった.そして,ある日,レシート状の紙に印字された培養液中のアミノ酸濃度の数字を見てようやく実験が成功したことを実感し,まさに農芸化学の醍醐味を味わった.今でいう代謝工学である.異種微生物の代謝経路をアミノ酸発酵菌へ“上手に”移植することで生産性は飛躍的に向上することがわかったが,この“上手に”という点が農芸化学のもつ“妙”とも言えよう.こうして限界と思われていた生産性の壁を打破する革新的な製法の可能性をつかみ,応用研究領域でも新たな景色が眼前に広がった瞬間でもあった.

時代が移り,昨今では,大学においても研究の競争的視点が強く浸透し,特に期限付き雇用という重圧のなかで戦っている研究者も多い.息つく暇もなく実験作業がさまざまなキットを利用して盲目的になされ,また,日々公開される膨大な量の論文や技術情報の波に襲われながら,論文の量産が急がされているとも聞く.企業でのバイオ研究においても,欧米での先進ロボティクスを用いたHTPスクリーニングや評価技術による物量攻撃にさらされながらも,成果創出と仕事の時間生産性の向上が厳しく問われ始められている.ワークライフバランスが重要であることには間違いないが,研究者のWorkの中に余裕がなくなっており,脇目も振らずに手元だけを見るのに精一杯というようになってはいないだろうか.新たな真の価値の創造には“ゆとり”や“遊び心”も必要である.そうでなければ,パラダイムシフトを起こすような研究はもとより,深みある成果ではなく,予定調和的な作業結果だけが山積されることになりはしないだろうか.

真理の探究から応用科学の世界へと私の研究遍歴の旅も相当の距離を飛行してきたが,未踏の世界へのフロンティアを果敢にいく学生さんや若手研究者に,「どんな景色が見えていますか?」と.ちょっと一息ついて顔を上げて素直に眺めてみてほしい.そして,彼ら・彼女らを大いに応援したい.そこには最前線に立つ者しか見ることができない景色があるはずである.