Kagaku to Seibutsu 55(1): 58-62 (2017)
バイオサイエンススコープ
わが国の感染症研究の現状と方向性について
Published: 2016-12-20
© 2017 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2017 公益社団法人日本農芸化学会
2015年10月,農林水産省から人事交流で文部科学省に出向して,研究振興戦略官として先端医科学研究を担当しています.先端医科学研究とはどんな研究領域なのか.ライフサイエンスのうち,その成果を社会還元するに当たって,省内,関係府省が密接に連携して取り組む必要がある医学研究領域とされており,感染症,がん研究,ゲノム医療などを担当しています.
「先端医科学研究」と聞いて,農芸化学会の方々には,「自分とは遠い領域」とお感じになる向きもあるかもしれませんが,後で述べるとおり,実際には新興感染症などの次々と生じる新たな事態への対応にブレークスルーをもたらすには,幅広い領域の専門家がこの問題にかかわることが不可欠であり,私自身,農林水産省から出向して本業務に携わるなかで,農芸化学を含む農学が担うべき部分も大きいと感じているところです.
また,この分野の研究推進においては,高度な研究環境の整備が求められるために,高度研究施設を拠点として,関係省庁,大学,研究機関のネットワーク構築による人材育成まで含んだ研究の推進と安全の確保の両面を満たす体制の整備など,農林水産研究の分野でも参考になる先導的な取り組みが行われています.
そうした観点から,今回ご紹介させていただく内容が皆様のご参考になれば幸いです.
わが国の経済社会のあり方を考えていくためには,日本が世界最高水準の高齢化社会であり,ますますその傾向が強くなることを考えておかなくてはなりません.
わが国の総人口は,長期の人口減少過程に入っており,平成72年には9,000万人を下回ります.昭和25年頃と同程度の総人口となります.また,生産年齢人口はその半分と推計されています.65歳以上の高齢者人口と15~64歳人口の比率は,昭和25年の1 : 12に対し,平成72年には1 : 1.3と恐ろしく超高齢社会を迎えるということが予測されています(1)1) 内閣府:平成28年版高齢社会白書,http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/zenbun/28pdf_index.html, 2016..
わが国は世界最高水準の平均寿命を達成し,人類誰もが願う社会を実現しました.これからは,さらに,若い世代から高齢者に至るまで国民誰もが健康な状態を維持し,本人が希望するライフスタイルに沿って,社会で活躍したり,余暇を楽しんだりするなど,生き生きとした実り豊かな生活を営めるような社会を構築していくことが重要となります.
このような社会の構築を目指して,政府は取り組むべき施策の基本方針,達成すべき成果目標(KPI),施策の推進方策を「健康・医療戦略」(平成26年7月22日閣議決定)としてとりまとめました(2)2) 健康・医療戦略推進本部:健康・医療戦略(平成26年7月22日閣議決定),http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/suisin/ketteisiryou/dai2/siryou1.pdf, 2016..研究開発については,健康・医療戦略に即して医療分野研究開発推進計画を策定し,これに基づき国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED),関係府省,国,地方,大学,医療機関,民間事業者が連携協力して推進されています(3)3) 国際的に脅威となる感染症対策閣僚会議:国際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画~絶え間ない感染症の脅威に挑戦する日本のアクション~(平成28年2月9日国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議決定),http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokusai_kansen/taisaku/keikaku.html, 2016..
多岐にわたる医療分野の研究開発のうち,「各省連携プロジェクト」として,医薬品創出,医療機器開発,革新的な医療技術創出拠点,再生医療,オーダーメイド・ゲノム医療,がん,精神・神経疾患,新興・再興感染症,難病の9つについて,各省の関連する研究開発プログラムを統合的に連携し一つのプロジェクトとして一体的な運用が図られています(図1図1■健康・医療戦略各省連携プロジェクトのKPI).
9つの各省連携プロジェクトのうち感染症研究に関連して,文部科学省に設置された検討会において,感染症研究の現状や課題,今後の感染症研究のあり方について検討が行われました.7月に「感染症研究の今後の在り方に関する検討会報告書」がとりまとめられましたので,その概要を紹介させていただきます(4)4) 科学技術・学術審議会:感染症研究の今後の在り方に関する検討会報告書(平成28年7月27日科学技術・学術審議会研究計画・評価分科会ライフサイエンス委員会(第79回)配付資料資料2-4-2, http://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n1739_10.pdf, 2016..
グローバル化の進展等に伴い,感染症が国境を越えて拡散するリスクが増えています.近年では,鳥インフルエンザ,重症急性呼吸器症候群(SARS),中東呼吸器症候群(MERS),エボラ出血熱などの流行が国際的に大きな脅威となりました.わが国においても,2014年70年ぶりにデング熱の国内発生が確認されました.本年は中南米中心に流行しているジカウイルス感染症の輸入症例が確認されました.ジカウイルス感染症は,妊娠時には小頭症などの先天性の障害を起こすおそれがあります.
感染症に関する国内対策を強化するとともに,国際協力による感染症制御に関する取り組みを進めることが急務となっています.
かつてわが国の死因の1位であった感染症は,衛生環境の改善,抗菌薬やワクチン開発などが功を奏し,撲滅可能な疾患であると楽観的な見方が主流となっていました.しかし,世界的には3大感染症(エイズ,結核,マラリア)の死者は年間300万人を超えています.加えてエボラ出血熱,SARS,MERS,デング熱,ジカウイルス感染症などが猛威をふるい,薬剤耐性(AMR)微生物の脅威も拡大しています.
かつてわが国は,北里柴三郎,野口英世,志賀 潔などの著名な研究者を多く輩出し,世界をリードしてきました.その後,感染症患者が大幅に減少したことに伴い,感染症研究,とりわけ基礎研究に取り組む研究者の減少の要因となってしまいました.
このようななか,2015年12月に大村 智北里大学特別栄誉教授がオンコセルカ症およびリンパ系フィラリア症の治療薬のシーズとなる物質の発見などの功績によりノーベル賞を受賞されました.このことは,わが国の感染症研究の潜在的なレベルの高さを示すものであり,学生,若手研究者,感染症領域以外の研究者に感染症に関心をもっていだく契機となるものと期待しています.
感染症に関しては,健康・医療戦略の下での各省連携プロジェクトである「新興・再興感染症制御プロジェクト」(図2図2■新興・再興感染症制御プロジェクト)により,病原体の全ゲノムデータの構築,薬剤ターゲット部位の特定,新たな迅速診断法の開発・実用化が進められています.
文部科学省においては感染症研究国際展開戦略プログラム(J-GRID)により,海外9カ所の拠点を活用し,インフルエンザ,デング熱,薬剤耐性菌,下痢症感染症等を対象に,疫学研究や診断治療薬等の基礎的研究を行っています(図3図3■感染症研究国際展開戦略プログラム).日本には存在しない感染症が蔓延している現地で患者に直接接することができるため,人材育成の面からも評価されています.
このほか文部科学省では,政府開発援助(ODA)と連携して行う感染症研究にも取り組んでいます.
厚生労働省では,「新興・再興感染症に対する革新的医薬品等開発推進研究事業」により,サーベイランスなどの感染症対策に関する基盤研究の強化,治療薬・診断薬・ワクチン開発などにつなげることを目的とした研究を実施しています.
これらの各省連携プロジェクトの実施により収集された病原体の全ゲノムデータが構築され一部は公開されています.
1928年のペニシリン発見以後,各種の抗菌薬が開発され,医療のみならず畜産業,水産業などでも活用されてきました.各種のワクチンと衛生環境の改善も伴って,先進諸国では,世界的に死因の上位を占めていた肺炎や結核,消化管感染症などが激減し,感染症はすでに制圧されたかのように思われました.しかしながら,現在でも世界的に見ると,各種の感染症がいまだに死因の上位を占めており,特に発展途上国などでは,感染症が主要疾患の地位を占めている状況にあります.先進国においても,新興・再興感染症の脅威が高まるとともに,薬剤耐性菌の出現と蔓延が深刻化しつつあるなかで,抗菌薬をはじめとする感染症治療薬や,ワクチンの開発を推進することが課題となっています.
このため,従来の抗菌薬とは作用機序等が異なる革新的な新規薬剤の開発に向けた取り組みの推進が期待されます.たとえば,耐性化が生じないように,菌を殺すのではなく,病原性メカニズムなどを標的とした抗菌薬の開発を急ぐ必要があります.また,従来の抗菌薬(低分子化合物)とは異なるアプローチにより,薬剤耐性菌を対象とした抗体医薬品やワクチンの開発が期待されます.
ワクチンについては,必要性やその開発状況などを把握したうえで,新たな視点でワクチン開発に向けた基礎的研究を推進することが必要です.薬剤耐性が問題となっている細菌などを対象としたワクチンが開発されれば,薬剤耐性菌問題の解決につながります.またアカデミア研究者には,トレンドを追うだけではなく,ぜひトレンドを先取りした研究も期待します.
研究のトレンドの変化により,若い研究者が微生物学よりも神経科学や分子生物学,ゲノム科学などの領域に関心を示す傾向が指摘されています.
しかし,感染症・微生物学領域は,新興感染症などのアウトブレイクの発生に対し迅速に対応するためには不可欠な学問です.微生物学に関心をもつ学生を増やし,将来の感染症研究者を養成する仕組みを考えることが必要です.
また医学,歯学,獣医学,薬学,農学などの学問分野,昆虫や植物などに付着する微生物を扱う研究との連携,微生物学以外の生命科学,さらには工学,情報科学など幅広い領域のテクノロジーや人材が求められています.
最近の若手研究者は,生きた病原体を丸ごと使用したり,感染現象そのものを見る経験が少なくなったことが指摘されています.
これらを解決するため,多様な領域の研究者が加わり,分野横断的に創造的な感染症研究が展開できるような仕組みが期待されています.
2014年の西アフリカにおけるエボラ出血熱のまん延は,世界中に大きな衝撃と不安を与えるとともに,わが国においてもエボラウイルスなどの高病原性ウイルスが研究と高度な安全設備を備えた実験施設(BSL4施設)の必要性の認識が広まりました.
2014年8月に国立感染症研究所村山庁舎が感染症法に基づく特定一種病原体等所持施設として指定されるまで,G7の中でBSL4施設をもってない国はわが国だけという状態でした.村山庁舎がBSL4として稼動できるようになっても,大学などの学術研究・基礎研究に使用できるBSL4施設はないという状況は変わっていません.
現在,国内の研究者は海外のBSL4施設で共同研究などの形でBSL4病原体にかかわる優れた研究を行っていますが,旅費や施設使用料などの経費面,成果の帰属,人材育成,先進諸国との協力関係の構築などにおいて,大きなデメリットがあります.
年2月に国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議により策定された「国際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画」において,「国内の大学等の研究機関における感染症に係る基礎研究能力の向上および危険性の高い病原体等の取扱いに精通した人材の育成・確保等を図るため,病原体解析,動物実験,治療法・ワクチン開発等の研究開発が可能な最新の設備を備え,安全性の確保に最大限配慮したBSL4施設を中核とした感染症研究拠点の形成について,長崎大学の検討・調整状況等も踏まえつつ,必要な支援を行うなど,我が国における感染症研究機能の強化を図る.」こととされました(図4図4■感染症研究体制推進プロジェクト).
BSL4施設が整備されれば,そこで取り扱うBSL4病原体に関する基礎・基盤研究,医療開発研究,疫学研究,人材育成などが可能になります.また,BSL4病原体にかかわる研究にとどまらず,感染症研究全体に技術的,人材育成面で大きな効果が期待されます.
現在,長崎県,長崎市および長崎大学が「感染症研究拠点整備に関する基本協定」に基づき,地域住民の理解促進などの取り組みが行われています.政府は,内閣官房,文部科学省,厚生労働省などが構成員となる検討委員会において,BSL4施設を中核とした感染症研究拠点の形成に必要な支援方策について検討・調整し,推進することとしています.
政府全体の医療研究に関する枠組みと,研究振興戦略官が担当している感染症研究について紹介させていただきました.
感染症研究に関しては,検討会報告書を踏まえて,来年度から新たなプログラムが開始できるよう,重篤感染症に関する研究の強化,海外で活躍できる研究者などの育成,多様な専門領域との連携方策などについて検討しているところです(図5図5■今後強化が求められる研究領域).
感染症もがんもこの世から根絶することはできませんが,何が病気の素になるのか,病気の素は細胞や体に入って何をしているのか,そのとき細胞や体はどのように反応するのかを解明することが,病気の診断,治療や予防に結びつける近道だと思います.「彼を知りて己を知れば百戦して殆うからず.彼を知らずして己を知れば一勝一負す.彼を知らず己を知らざれば戦う毎に必ず殆うし.」です.
Reference
1) 内閣府:平成28年版高齢社会白書,http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/zenbun/28pdf_index.html, 2016.
2) 健康・医療戦略推進本部:健康・医療戦略(平成26年7月22日閣議決定),http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kenkouiryou/suisin/ketteisiryou/dai2/siryou1.pdf, 2016.
3) 国際的に脅威となる感染症対策閣僚会議:国際的に脅威となる感染症対策の強化に関する基本計画~絶え間ない感染症の脅威に挑戦する日本のアクション~(平成28年2月9日国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議決定),http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokusai_kansen/taisaku/keikaku.html, 2016.
4) 科学技術・学術審議会:感染症研究の今後の在り方に関する検討会報告書(平成28年7月27日科学技術・学術審議会研究計画・評価分科会ライフサイエンス委員会(第79回)配付資料資料2-4-2, http://www.lifescience.mext.go.jp/files/pdf/n1739_10.pdf, 2016.