Kagaku to Seibutsu 55(2): 105-112 (2017)
解説
コムギのゲノムを読むゲノム研究はコムギ研究とともに始まった
Sequencing of Wheat Genome: Genomics Started with Wheat Research
Published: 2017-01-20
コムギは,全世界の耕地の16%に相当する2億1,800万ヘクタールで栽培され,その生産量は年間約7億トンにも及び,イネやトウモロコシとともに世界の三大穀物として,私たちの食料基盤を支えている.また,トウモロコシやイネよりも多くのタンパク質を含むことから,多くの国で最も重要な植物タンパク質源となっている.一方,コムギは遺伝学の材料として古くから利用されてきており,今日,一般的に使われるようになった「ゲノム」という言葉は,コムギと深い関係にある.しかし,コムギゲノム自体は,ヒトゲノムの5.7倍の17 Gbもあり,異質6倍体ということと相まって,その解読は進んでいなかった.本稿では,コムギとゲノム研究のかかわりを解説しながら,現在進められているコムギのゲノム解読の現状を紹介する.
© 2017 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2017 公益社団法人日本農芸化学会
パン,うどん,ラーメンといった主食類はもちろんのこと,ケーキやクッキーなどの菓子類,さらに,天ぷら,お麩,餃子の皮,ピザ生地と和洋中あらゆる料理の食材として,小麦粉製品は,今日の私たちの食生活になくてはならないものであり,毎日の食卓を豊かなものにしている.これは統計にも表れており,農林水産省による食糧需給表(1)1) 農林水産省:食糧需給表,http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/zyukyu/によると,平成26年の日本人の一人・1日当たりの供給熱量は2,415 kcalで,そのうちコメから539 kcal,コムギから331 kcalを採っており,油脂類を除くとコムギは供給源の第2位である.また,タンパク質供給量で見ると,コムギは一人・1日当たり9.9 gであり,コメの9.2 g,ダイズの5.6 gをしのいで,堂々,植物性タンパク質源のトップに位置している.日本人の食生活におけるコメとコムギの関係を象徴的に表しているのが,コメとパンに対する世帯当たりの支出額である.総務省統計局による家計調査報告(家計収支編)(2)2) 総務省統計局:家計調査(家計収支編)調査結果,http://www.stat.go.jp/data/kakei/2.htmでは,世帯当たりのコメとパンの支出額は平成22年に,パンがコメを上回り,平成27年には,パン2,115円,コメ1,521円と大きな差がついている(この統計では,商品としてのパンとコメを比べており,外食や中食といった加工品提供を含んでいないことに注意).このように,今や,コムギは私たちの日常生活にとって欠かせない重要な食料の一つである.ところが,ふだん,私たちが食べているコムギはどこで作られているかを見てみると,イネ(コメ)とはおよそ様子が違っている.主食用のコメは日本のなかで100%自給できているが,コムギの自給率は僅か13% (平成26年)に過ぎず,残りの87%はアメリカ,カナダ,オーストラリアから輸入されている.つまり,「私たちの豊かな食生活は輸入食料によって支えられている」と言われる構図は,コムギにおいても,ぴたりと当てはまっている.
世界に目を転じると,少し違った視点が見えてくる.コムギは全世界の耕地面積の16%に相当する2億1,800万ヘクタールで栽培されており,世界で最も栽培されている作物である(3)3) FAO: FAOSTAT 2013, http://faostat.fao.org/site/339/default.aspx.重要なことは,開発途上国などにはコムギを主食として生活している貧しい人たち(ここでは,1日当たり2USドル以下で暮らしている人と定義)が25億人おり,さらにその半数近くの12億人は,専らコムギだけに依存した食生活を送っている.開発途上国全体で見ると,コムギはコメに次いで第二のカロリー源であり,また第1位のタンパク質源である(4)4) H. J. Braun, G. Atlin & T. Payne: “Climate Change and Crop Production,” ed. by M. P. Reynolds, CABI, 2010, pp. 115–138..このように,コムギは世界の多くの地域や人々にとって,生きていくために欠かすことのできない重要な食料なのである.
しかし,地球規模の環境変動や人口増加により世界のコムギ需給は逼迫しており,ある試算では,増え続ける開発途上国の需要を満たすには2050年までに60%の増産が必要なのにもかかわらず,気候変動により途上国での生産量は20~30%減少すると言われている(5)5) CIMMYT: WHEAT—Global Alliance for Improving Food Security and the Livelihoods of the Resource-Poor in the Developing World, http://repository.cimmyt.org/xmlui/bitstream/handle/10883/669/94267.pdf?sequence=1.世界的な食料危機を避け,また,私たちの豊かな食生活を守るためには,栽培環境の変化に対応した生産の安定化,食料増産要求に応える収穫量の飛躍的な向上が,コムギについても大きく期待されている.そうしたコムギ生産が抱える問題に答えを出すために,今,コムギ研究者が最も重要視しているキーワード,それが「ゲノム」である.
「ゲノム」という言葉は,今でこそ普通にテレビや新聞を賑わすようになったが,そもそも,いつ頃から,どんな意味で使われ始めたのだろうか? 「ゲノム」という言葉を初めて使用したのは,1920年ドイツの植物学者であるHans Winklerであり,彼は遺伝子(gene)と染色体(chromosome)を合わせて「genome」という造語を作り,それに「配偶子がもつ染色体のセット」という意味をもたせた(6)6) H. L. Winkler: “Verbreitung und Ursache der Parthenogenesis im Pflanzen- und Tierreiche,” Verlag Fischer, 1920..さらに,「ゲノム」という言葉の定義を一歩進めたのは日本の植物遺伝学者である木原 均であり,彼は倍数性植物の研究から,ゲノムとは「生物の生存に必須な最小限の染色体のセット」と定義した(7)7) K. Tsunewaki: “Advances in wheat genetics: From genome to field,” Springer, 2015, p. 3..このゲノムという語の再定義に使われた倍数性植物こそが,何あろうコムギであった.
木原は,コムギとその近縁種を材料とした染色体観察を通じて,コムギ属では7本の染色体が最小限の基本的セットであることを見いだし,その基本セットを「ゲノム」と呼んだ.さらに,コムギおよびその近縁種間の雑種における染色体対合を観察して,それぞれの種が同じゲノムをもっているかどうかの検証を進めた.つまり,もし同じゲノムをもっていれば,雑種では染色体対合が起こり二価染色体を形成するが,違うゲノムの場合は対合が起こらない.この手法は今ではゲノム分析法として知られているが,これによって,木原は,現在,私たちが主に食用としているコムギ(パンコムギとも言う)が3つのゲノムからなる異質6倍体であり,そのゲノム構成がAABBDDで表されること,そして,コムギを構成する3つのゲノムABDは,それぞれコムギに近縁な2倍体種に起源していることを明らかにした(8)8) H. Kihara: Cytologia (Tokyo), 1, 1 (1929)..さらに,木原は,AABBのゲノム構成をもつ二粒系コムギ(一般的にはマカロニコムギとして知られているパスタ用のコムギ)にDゲノムをもつ野生種のタルホコムギを交配して,ABD3つのゲノムをもつ6倍体の合成パンコムギを作出し,パンコムギの進化の過程を人為的に再現することに成功した(9)9) 木原 均:農業及園芸,19, 13(1944).(図1図1■コムギの成り立ち).この合成コムギの研究は,アメリカのSearsによっても進められており,木原と同じ1944年に論文として発表されている(10)10) E. S. McFadden & E. R. Sears: Rec. Genet. Soc. Am., 13, 26 (1944)..第二次世界大戦下で,科学的交流が全くなかった時代の発見であり,科学発見の同時性の一例として興味深い.
コムギ(Triticum aestivum)は,3つの祖先2倍種(Triticum urartu, Aegilops speltoides?, Aegilops tauschii)から2回の交雑とその後の倍数化を通じて成立した.
このように,1920年のWinklerによるゲノムという概念の創出から始まった古典的なゲノム研究は染色体をベースにしており,そのなかで,コムギがゲノム研究の材料として中心的な存在であったことは間違いなく,まさに,「ゲノム研究はコムギ研究とともに始まった」としても言いすぎではないだろう.
しかし,1953年のWatsonとCrickによるDNAの二重らせん発見(11)11) J. D. Watson & F. H. C. Crick: Nature, 171, 737 (1953).に代表される分子生物学の発展は,「ゲノム」という言葉の定義をさらに書き換えることとなった.現在では,ゲノムとは「生物の細胞中に存在するDNAに書き込まれているすべての遺伝情報」と考えられており,染色体を基本単位として考えられてきた古典的ゲノム遺伝学から,DNAを基本的な単位とする現代ゲノム遺伝学へと研究の流れが大きく転換した.
こうした研究の大転換のなかで,古典ゲノム研究のモデル生物であったコムギは,急速に,その材料としての優位性を失っていくこととなる.それはいったい,どういう理由であったのだろうか?
前項でも触れたが,コムギゲノムの特徴の一つは,ABDという3つのゲノムからなる異質6倍体ということにある(図1図1■コムギの成り立ち).Aゲノムは一粒系コムギとして知られるTriticum urartuに,そして,Dゲノムは近縁野生種のAegilops tauschiiに由来する.Bゲノムの提供親は現存していないと考えられているが,近縁野生種であるAegilops speltoidesに近いものであったと推定されている.コムギの進化の過程は,まず,T. urartu(ゲノム構成AA)とAe. speiltoides近縁種(仮にゲノム構成BB)との間の交雑により二粒系コムギ(T. turgidum,ゲノム構成AABB)ができ,さらに,この二粒系コムギにAe. tauschii(ゲノム構成DD)がかかって,ゲノム構成がAABBDDとなる6倍体である現在のコムギT. aestivumが成立したわけである.ここで注目すべきことは,コムギを構成する3つのゲノムは,コムギとその近縁種の共通の祖先種のゲノムから進化してきたものだということである(これを同祖ゲノムと呼んでいる).同祖ゲノムを構成する各染色体(同祖染色体)を個々に詳細に比較してみると,ゲノムの進化の過程で構造などにいろいろな変異が生じており,決して同一ではない(だから,コムギは異質倍数体なのだが).しかし,マクロな視点から眺めると,祖先が共通なことを反映して,同祖染色体の多くの部分で,同じような塩基配列が同じような順番で並んでいることが多い.特に,遺伝子領域に関しては,遺伝子のもつ機能を維持するためにとりわけ保存性が高い.実は,この保存性の高さが,DNAを基本として塩基配列ベースで解析を進めていく現代のゲノム研究とはすこぶる相性がよろしくない.たとえば,2倍体の生物で単一コピーの遺伝子といえば,文字どおりゲノム中に一つしか存在しないわけだが,6倍体であるコムギでは,(おかしな表現ではあるが)単一コピー遺伝子は3コピー存在するわけである.よくよく解析してみれば,ABDいずれのゲノムから由来したのかは,多くの場合,識別できるのではあるが,一つの遺伝子について,毎回,そのような手間をかけなければいけないことは,研究上大きなハンディである.
次に,コムギのゲノムの特徴として触れておかなければならないのは,そのサイズの大きさである.コムギのゲノムサイズは,約17 Gbと推定されている(12)12) K. Arumuganathan & E. D. Earle: Plant Mol. Biol. Rep., 9, 208 (1991)..これは,高等植物で初めて全ゲノム配列が解読されたモデル植物シロイヌナズナ(約130 Mb)の130倍,同じイネ科でコムギ同様に重要な食用作物であるイネ(約390 Mb)の44倍にも及ぶ大きなものである.シロイヌナズナの全ゲノムの大きさはコムギ染色体のほんの一部に過ぎないし,イネの全ゲノムはコムギの1本の染色体の片腕のなかに納まってしまう.かなり大きなオオムギでさえも,コムギの3分の1に過ぎない(図2図2■コムギゲノムとほかの植物ゲノムとのサイズの比較).
古典的な染色体ベースのゲノム遺伝学では,ゲノムサイズの大きいことには,大きなアドバンテージがあった.一般的に,ゲノムサイズと染色体のサイズは比例関係にあり,コムギの染色体は,シロイヌナズナやイネと比べるとかなり大きく,顕微鏡下での観察に非常に適していた.前述した木原らの研究が,コムギで行われて成功に至ったのには,こうした理由があったからである.しかし,この大きさが,DNA時代には大きなハンディとなる.もし,17 Gbのコムギゲノムを,イネの全ゲノムを解読したときのスピード(8年間のプロジェクトで390 Mbを解読した)で解読しようとしたら,実に350年もかかってしまう.つまり,20年ほど前,イネゲノムの解読が始まったころに,コムギのゲノムを読もうなどと考えることは「とうてい実現不可能な夢」に過ぎなかったのである.
もう一つ,コムギゲノムの特徴を挙げるとすると,ゲノム全体の80%を超す領域がトランスポゾンなどの反復配列で占められているという点である(13)13) R. B. Flavell, J. Rimpau & D. B. Smith: Chromosoma, 63, 205 (1977)..シロイヌナズナの場合は10%程度,イネの場合は20~30%程度と言われていることから,コムギゲノムにおけるトランスポゾンの占める割合が非常に大きいものであることがわかる.トランスポゾンのなかにも機能的な領域があることが知られてはいるが,ゲノム配列を解読してもしても同じような配列が多重に反復しているうえ,それがトランスポゾンばかりとなると,解読しようとするものの士気を下げること,大である.
ここで述べてきたコムギゲノムの特徴は,古典的な染色体ベースの時代には,特に問題にはならないか,むしろ実験材料としてのメリットにさえなっていたのだが,DNA時代になってみると,実験の対象とするには困難が多く,まさに「やっかいな」ゲノムという位置づけになってしまった.
ゲノムサイズが大きい,ゲノム構成が複雑,反復配列だらけ,という三重苦のコムギゲノムではあるが,作物としての重要性は疑いようもない.そして,コムギの生産性の向上にはゲノム情報が不可欠であり,何とかして,コムギゲノムを解読しようという機運が盛り上がり,2005年に,国際コムギゲノム解読コンソーシアム(IWGSC: International Wheat Genome Sequencing Consortium)(14)14) International Wheat Genome Sequencing Consortium (IWGSC): http://www.wheatgenome.org/が結成された.結成時のco-chairには,日本から横浜市立大学の荻原保成教授が加わっている.
IWGSCがコムギゲノム解読のために採用した研究戦略は,BACライブラリーを作成し,BACを基に物理地図を作成し,染色体上に整列させたBACを順番に塩基配列解読していくというものであり,イネゲノム解読の際にとられた手法と基本的には同じである.こう書くと,読者のなかには,同祖ゲノムがあったり異常に反復配列が多いのだから,きちんとBAC物理地図を作るのは難しいのではないか,先ほどイネと同じだと350年もかかると言ったではないか,という方もあると思う.そのとおりなのだが,実は,2つの大きな技術革新が,この手法をコムギにも適用可能にしたのである.
その一つ目は,塩基配列解読技術の驚異的な進歩である.イネゲノム解読時代に用いられていたシークエンサーはサンガー法に基づいたもので,1 run当たり100 kb程度であったものが,次世代シークエンサー(NGS)の登場により,解読量が飛躍的に増加し,現在,最高水準のNGSの1 run当たりの解読量は100 Gbをはるかに超えている.僅か10年余りの間に,解読量は100万倍へと爆発的な増加を遂げた.これに伴い,塩基配列解読のコストも下がり,2004年のイネゲノム解読終了時の1 Mb当たり1,000 USドルが,2015年には1 Mb当たり僅か5セント程度と,1/20,000に減少している(15)15) National Human Genome Research Institute: DNA Sequencing Costs: Data, https://www.genome.gov/27541954/dna-sequencing-costs/.2005年の段階で,ここまで解読量が増加し解析コストが下がることが予見できていたとは思えないが,NGSの登場とそのすさまじい進歩は,コムギゲノム解読にとって強力な追い風になったことは間違いない.
2つ目は,ゲノムDNA全体を相手にしてBACライブラリーを作るのではなく,コムギゲノムを構成する21本の染色体(半数体当たり)について,染色体を1本ずつ単離して,そこから抽出したDNAを用いて,BACライブラリーを作成することにしたのである(図3図3■染色体ソーティング方法のイメージ).染色体ごとのライブラリーを作ることにより,まず,同祖染色体(たとえば,6A, 6B, 6D)から由来する類似した配列をもつBACについて面倒な識別作業は必要としなくなる.そして,17 Gbという巨大なゲノムも個々の染色体に分割してしまえば,平均で800 Mbという取り扱い可能なサイズに落とすことができる(それでも,まだ,イネの全ゲノムの2倍強の大きさがあるのだが).こうした染色体のふるい分けを可能にしたのは,直接的には,チェコの実験植物学研究所のDoleželらのグループによるセルソーターを利用した染色体ソーティング技術(16)16) M. Kubaláková, M. Valárik, J. Bartoš, J. Číhalíková, M. Molnár-Láng & J. Doležel: Genome, 46, 893 (2003).である.ただ,この戦略が成功した背景には,ソーティング技術だけではなく,ソーティングに使う材料にも,ほかの生物にはないコムギならではの隠し技があった.
(左)セルソーターにより,染色体を大きさ(蛍光強度)によって振り分ける.(右)各染色体はソーティングによって,個別のフラクションとして回収される(原図はチェコ・実験植物学研究所Jaroslav Doležel博士より提供).
通常のコムギ系統を使って,染色体ソーティングを行おうとすると,21本の染色体のなかで最もサイズの大きな3B染色体は単独のピークを示し,これを単離することは容易にできる.しかし,残りの20本の染色体はサイズの近いもの同士が重なり合って,いくつかのグループを作ってしまうため,単一のピークとはならず,個々の染色体として単離することができない.そこで登場するのが,端部動原体系統(ditelosomic line)と呼ばれる染色体操作系統である(図4図4■6B端部動原体染色体系統を用いた染色体ソーティング).この系統は,各染色体の片腕がなくなって,結果として,動原体が染色体の中心ではなく末端にあることから名づけられている.これをソーティングの材料に用いると,通常のサイズの約半分に短くなった染色体として,ほかの染色体とかぶらないピークとなり,これを単離することにより,染色体の腕ごとのDNAを抽出することができる.この端部動原体系統は,前述したコムギの起源の発見者の一人であるアメリカのSearsらによって作成されたものであり(17)17) E. R. Sears: Mo. Agric. Exp. Stn. Res. Bull., 572, 57 (1954).,染色体をベースとした古典的なコムギゲノム遺伝学によって生みだされてきた数々の実験系統の一つである.もし,こうした研究の蓄積がなかったなら,コムギのゲノム解読は今の技術水準をもってしてもまだ相当に困難なものであったと思われる.「温故知新」とはよく言ったものである.
コムギゲノムの特徴ともいえるさまざまな困難を,さまざまな技術や材料で乗り越え,また,IWGSCという国際的な研究協調のなかで,この10年間,コムギゲノム解読は進んできた.IWGSCでは,前項で述べたような研究戦略に基づいて,染色体を各参加研究機関で分担する形で解読が進められており,日本からは,農業生物資源研究所(現農研機構次世代作物開発研究センター),京都大学,横浜市立大学,日清製粉などの産官学8研究機関が一体となった研究グループが参加し,21本の染色体のうち,3番目に大きい6B染色体を担当して解析を進めている(図5図5■IWGSCによるコムギゲノム解読の分担状況).
上段は物理地図作成状況,下段は参照ゲノム配列の解読状況を示している.緑の部分が多いほど,プロジェクトが進行していることを表している.染色体の上部にある旗は,各染色体を担当している国あるいは企業を示している.物理地図は,3A染色体長腕以外は,すべてINRA URGIのHPで公開されている(国際コムギゲノム解読コンソーシアム(IWGSC)より転載許可).
IWGSCはゲノム解読の第一段階として,ソーティングされた染色体から抽出されたDNAをショットガン法により解読した概要配列を2014年に公開した(18)18) International Wheat Genome Sequencing Consortium (IWGSC): Science, 345, 1251788 (2014)..この概要配列は,コムギゲノム17 Gbの61%に相当する10.2 Gbをカバーしており,そのなかに高信頼度と判定される推定遺伝子座124,201が同定されている.現時点では,推定遺伝子座は少し多めで最終的には10万程度になると思われるが,ほかの2倍体植物で明らかになっているゲノム当たり32,000~38,000遺伝子座とほぼ一致していることから,この概要配列はコムギのもつ遺伝子領域をほぼ網羅しているものと考えられている.また,染色体ごとに解読されていることから,問題になっていた3つの同祖ゲノム由来の配列を明確に区別することができ,概要レベルではあるが,コムギの遺伝子機能解明や品種改良などに大きく貢献できると思われる.しかし,この概要配列はカバー率が61%と十分でないこと,各配列アセンブリのサイズが数kb(L50)に過ぎない(非常に細かい配列に分断された状態である)こと,そして,各アセンブリの染色体への帰属は明らかであるが,染色体上の位置関係が明らかでない(染色体に沿ったひとつながりの配列になっていない)ことから,イネのような完全解読された参照配列のレベルには至っていない.
一方で,参照配列解読の一つ目の染色体として,21本のコムギの染色体のなかで最も大きな3B染色体の解読が,2014年にフランスのグループによって終了し,その内容が,前述の概要解読と同時に発表されている(19)19) F. Choulet, A. Alberti, S. Theil, N. Glover, V. Barbe, J. Daron, L. Pingault, P. Sourdille, A. Couloux, E. Paux et al.: Science, 345, 1249721 (2014)..それによると,当初1 Gbあると考えられた3B染色体のサイズは886 Mbであり,その93%にあたる774 Mbがひとつながりの配列アセンブリとして作成された.この配列アセンブリのなかには,5,326のタンパク質コード遺伝子と1,938の偽遺伝子が見つかっている.また,全体の85%は推定されたとおり,トランスポゾンによって占められていた.概要配列や3B染色体の参照配列公表のインパクトは非常に大きく,病虫害抵抗性,収量,乾燥耐性,出穂性などさまざまな形質に関する遺伝子単離プロジェクトが急速に進行しつつある.
一方で,個別の研究プロジェクトにとどまらないグローバルなコムギ研究への取り組み,Wheat Initiative(WI)が,2011年に,G20農相会合での合意に基づきスタートした(20)20) Wheat Initiative (WI): http://www.wheatinitiative.org/.WIは,国際的なレベルでのコムギに関する研究戦略を提示し,各国の研究者間はもちろん,生産者から政策立案者に至るまで,およそコムギの研究にかかわるすべての人の間のコミュニケーションを図っていくことを目的としている.WIの設立は,本稿の冒頭で示したコムギの国際的な食糧としての重要性を考える政策サイドと,いかに研究を効率的に進めて,それをコムギ生産に生かしていくかを考える国際的なコムギ研究コミュニティの両者の思惑が一致したことによるが,その冒頭で,WIの活動(つまり,国際的なコムギ研究)にとって,第一に取り組むべき,最も重要な研究テーマは「コムギゲノム解読」であるとした.実際に,概要配列や一部ではあるが参照配列が発表された今,WIでは,これからのコムギ研究はどうあるべきか,何をターゲットとすべきかについて,非生物的環境耐性,病害虫抵抗性,遺伝資源保全と利用,品質と安全性,養分利用効率,育種手法開発,フェノタイピング手法開発など,コムギに関するありとあらゆる研究分野でポストゲノムの視点での議論が始まっている.ゲノム配列の整備が,コムギ研究に飛躍をもたらし,ゲノム育種などを通じてコムギ生産の向上に大きく貢献するとしたIWGSCの目論見は,10年を経て現実のものとなりつつある.
しかし,今のところ,完全解読が終わったのは21本のコムギ染色体のうちの1本だけであり,IWGSCでは,21本すべての染色体について85%以上をカバーし染色体に沿って整列化された配列(1 Mb当たり10スカフォールド以下)を最終目標として,2017年までにコムギゲノムの全体像を明らかにしようと,引き続き研究を進めている.
約90年前にスタートして,DNA時代が始まるまでの40年ほどの間,ゲノム遺伝学のモデル生物であったコムギであるが,20年前には,その全ゲノム解読など夢物語であり,10年前に国際コンソーシアムができたときでさえ,本当にできるのだろうかと多くの人が半信半疑であった.そのコムギの全ゲノム解読が,今や現実のものとなりつつある.その間に,コムギは,染色体ベースの研究から見いだされた最新の知見を研究コミュニティに提供したり,あるいは,逆に,最新の解析技術をコミュニティから導入して克服すべき困難なターゲットとして,ある意味,ゲノム遺伝学の研究材料としての第一線にあり続けてきた.そして,気候変動や人口増加などさまざまな地球環境の変化に対応して,人類が生存し続けるために,作物としての重要性もますます増加している.
高精度なゲノム参照配列が,その作物の研究基盤を強化して,世界全体の需要に応じることができる生産を維持・拡大していくために必要であることは,イネやトウモロコシなどすでにゲノムが解読されたほかの作物の例からも明らかであり,コムギについても,概要配列や3B染色体の完全解読後に進んでいる各種の研究プロジェクトの進み具合を見ると,まだゲノム解読は終わっていないにもかかわらず,解読は既定の事実となっており,もはや研究のフェーズは明らかにポストゲノムに入りつつある.今後のゲノム解読技術のさらなる進歩を考えると,ゲノムを読み始めるときには,すでにポストゲノムが始まっている時代になるように思われるし,そもそも,ゲノムプロジェクトという形で大げさなコンソーシアムを組む必要もなく,一人の研究者が始めたいときにいつでも始められるようになるのも,すぐそこまできている.そういう点から,コムギは染色体研究でゲノム遺伝学の幕を開けるとともに,そのゲノム解読の完了でゲノム遺伝学の一つの時代の幕を引くことになるのかもしれない.
IWGSCによるコムギゲノムに関するデータは,フランスのINRA URGIが運営する以下のサイトから一括して公開されている.興味のある方は,一度,ご覧ください.http://wheat-urgi.versailles.inra.fr/
Acknowledgments
農研機構作物開発センターの小林史典氏,鳥取大学の辻本 壽氏には,本稿の執筆にあたって,ご助言をいただきました.また,図の一部は,チェコ・実験植物学研究所Jaroslav Doležel博士および国際コムギゲノム解読コンソーシアムから転載の許可をいただきました.本稿の図表中で使用した写真については,宅見薫雄(神戸大),川東広幸(農研機構作物開発センター),賀屋秀隆(農研機構生物機能部門)の各氏に提供していただきました.また,コムギ6B染色体のゲノム解読は,農水省委託研究「次世代ゲノム基盤プロジェクト」の支援を受けて,多くの共同研究者の方とともに実施しているものです.ここに,改めてすべての関係者のみなさまに感謝申し上げます.
Reference
1) 農林水産省:食糧需給表,http://www.maff.go.jp/j/tokei/kouhyou/zyukyu/
2) 総務省統計局:家計調査(家計収支編)調査結果,http://www.stat.go.jp/data/kakei/2.htm
3) FAO: FAOSTAT 2013, http://faostat.fao.org/site/339/default.aspx
4) H. J. Braun, G. Atlin & T. Payne: “Climate Change and Crop Production,” ed. by M. P. Reynolds, CABI, 2010, pp. 115–138.
5) CIMMYT: WHEAT—Global Alliance for Improving Food Security and the Livelihoods of the Resource-Poor in the Developing World, http://repository.cimmyt.org/xmlui/bitstream/handle/10883/669/94267.pdf?sequence=1
6) H. L. Winkler: “Verbreitung und Ursache der Parthenogenesis im Pflanzen- und Tierreiche,” Verlag Fischer, 1920.
7) K. Tsunewaki: “Advances in wheat genetics: From genome to field,” Springer, 2015, p. 3.
8) H. Kihara: Cytologia (Tokyo), 1, 1 (1929).
9) 木原 均:農業及園芸,19, 13(1944).
10) E. S. McFadden & E. R. Sears: Rec. Genet. Soc. Am., 13, 26 (1944).
11) J. D. Watson & F. H. C. Crick: Nature, 171, 737 (1953).
12) K. Arumuganathan & E. D. Earle: Plant Mol. Biol. Rep., 9, 208 (1991).
13) R. B. Flavell, J. Rimpau & D. B. Smith: Chromosoma, 63, 205 (1977).
14) International Wheat Genome Sequencing Consortium (IWGSC): http://www.wheatgenome.org/
15) National Human Genome Research Institute: DNA Sequencing Costs: Data, https://www.genome.gov/27541954/dna-sequencing-costs/
17) E. R. Sears: Mo. Agric. Exp. Stn. Res. Bull., 572, 57 (1954).
18) International Wheat Genome Sequencing Consortium (IWGSC): Science, 345, 1251788 (2014).
20) Wheat Initiative (WI): http://www.wheatinitiative.org/