Kagaku to Seibutsu 55(6): 392-399 (2017)
解説
NMRによる実践的な農業メタボロミクス研究に向けて
Proposal for Practical Application of Field Metabolomics
Published: 2017-05-20
農産物や食品に含まれる成分の多様性は、栽培現場から食卓に至るまでの環境の多様性を反映して変化し,ヒトの健康やヒトを取り巻く生態系の物質循環にも影響すると考えられる.メタボロミクスはサンプル中の成分多様性を包括的に検出するために有効な手段であり,分析機器の性能の向上や解析技術の発展に伴って,かつては曖昧な部分もあった成分多様性の概観をより高感度・高解像度で捉えることが可能になった.今後は,農業・食品産業現場の試料を対象としたメタボロミクスの需要がさらに増すと期待できる.本稿では,農業・栽培を中心に,現場関係者と連携したメタボロミクスを実施するにあたって必要と思われる確認事項を提案し,NMRによる農業メタボロミクスの実施例を紹介し,今後の展望を議論したい.
© 2017 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2017 公益社団法人日本農芸化学会
サンプル内の代謝混合物(メタボローム)を一斉に検出し,多成分のバランス変化を可視化(代謝プロファイリング,成分プロファイリング)して試料の状態を捉える研究はメタボノミクス,メタボロミクスと呼ばれ,さまざまな分野に影響を与えるようになった.もともとのメタボロームの定義は「細胞内あるいは生体内の低分子代謝物の総体」とされ(1, 2)1) H. Tweeddale, L. Notley-McRobb & T. Ferenci: J. Bacteriol., 180, 5109 (1998).2) J. K. Nicholson, J. C. Lindon & E. Holmes: Xenobiotica, 29, 1181 (1999).,1990年代後半くらいから,メタボロームの構成要素である個々の代謝物を混合物のまま同定・定量するための計測技術や,必要な情報を可視化するためのデータマイニングなど,解析の方法論が開発されてきた(3, 4)3) 吉田欣史,久原とみ子,菊地 淳:ぶんせき,7, 371(2009).4) 関山恭代,近山英輔,菊地 淳:ぶんせき,2, 81(2012)..さらに先駆者らの尽力により,医療・創薬への応用を志向したバイオマーカー探索や,モデル生物を用いた遺伝子機能解明などのライフサイエンスをとおして,メタボロミクスの可能性が広く認識されるに至った.近年ではメタボロミクスで取り扱う試料は多岐にわたり,土壌や加工食品など,複数の生物や素材の複雑な混合系にまで解析対象が広がりつつある.農業研究や食品研究の分野では,見た目ではわからない農作物,農産物や食品の品質の違いについて,「成分の多様性の違い」「多成分の複合的な効果」を指標とする新たな評価軸を与えられると期待できる.メタボロミクスによる農産物や食品の解析については,本誌の解説(5)5) 及川 彰:化学と生物,51, 615(2013).や,バイオインダストリー誌の2015年特集号(フードメタボロミクスの最前線)などでも広く紹介されている(6)6) 福先英一郎:バイオインダストリー,32(10), 46(2015)..現在は,農場から食卓までの一連のフードシステム全体を対象とした利用が期待される,新たなメタボロミクスの発展期だと言えよう.野外環境や農業・食品産業の現場には,室内実験系では再現できない多様な環境要因がある(図1図1■農業・食品産業現場における包括的なメタボロミクスの概念).今後は農業・食品産業の現場から生じる試料を分析し,環境多様性と成分多様性との関係に迫る試みがさらに重要になると考えられる.しかし,メタボロミクスのための便利な解析ソフトウェアやデータベースが充実し(7, 8)7) T. Tohge & A. R. Fernie: Phytochemistry, 70, 450 (2009).8) J. J. Ellinger, R. A. Chylla, E. L. Ulrich & J. L. Markley: Curr. Metabolomics, 1, 28 (2013).,新規利用者のメタボロミクスへのハードルが下がっている一方で,機器分析や代謝解析の研究現場と農作物や食品の生産現場との間にはいまだに隔たりがあり,十分に連携しきれていないと感じる場面もある.質量分析(MS)装置や核磁気共鳴(NMR)装置など,いわゆる精密分析機器でμMスケール以下の成分変化を追跡する分析室内と,トン単位以上の量を扱いかつ多様な環境要因を考慮しなければならない農業・食品産業の現場との間には,互いにあまり気づいていない認識の違いもあるかもしれない.本稿では,フードシステムの起点となる農業・栽培(図1図1■農業・食品産業現場における包括的なメタボロミクスの概念太点線枠内)を中心に,現場関係者と連携したメタボロミクス研究において必要と思われる確認事項を提案し,筆者らが実施してきたNMRによる農業メタボロミクスの例を含めて当該分野の最近のトピックスを紹介し,今後の展望を議論したい.
本題に入る前に,筆者らが実施しているNMR法によるメタボロミクスについて簡単に紹介する.NMR法は,主に分子の化学構造や物理的性質を解析する技術として用いられてきたが,以下の特性から,メタボロミクスのような多成分混合系の解析にも大いに活用できる.すなわちNMRメタボロミクスでは,1)搾汁液や発酵培養液,血液や尿などの代謝混合物を分離せずにそのまま計測できるため,試料の前処理が比較的容易である,2)試料を3~5 mm径の試料管に入れて計測するため分析システムを汚染せず,多検体試料について傾向を掴むための一次スクリーニングに適している,3)データベースに収録されていない未同定代謝物についても部分構造解析ができ,どのタイプの化合物かがわかる,4)液体試料のみならず,肉やチーズ,カットした野菜などの固形試料の計測も可能である(9)9) M. Valentini, M. Ritota, C. Cafiero, S. Cozzolino, L. Leita & P. Sequi: Magn. Reson. Chem., 49(Suppl. 1), S121 (2011).,5)装置の安定性が高くスペクトルの再現性が高いため,何年にもわたる追跡調査が可能である,などの利点がある.これらの特性は,多様な性質・形状を有する試料の大量分析や,年次変動のような長期の調査が必要となる農業・食品産業現場の試料の解析に向いていると言える.NMRメタボロミクスによる農産物や食品試料の解析については,Magnetic Resonance in Chemistry誌の2011年特集号において,品質評価,産地判別,栄養・機能性評価などの具体例が広く紹介されているほか,それ以降の例については筆者らの総説にもまとめてあるのでご参照いただきたい(10)10) 関山恭代,池田成志,冨田 理:バイオインダストリー,32(10): 10(2015)..
浜松ホトニクス株式会社が世界で初めてレーザー光を用いたイネの室内栽培に成功したのは1998年である.イネやダイズのような強光を要求する作物を室内環境で栽培することは難しく,浜松ホトニクスの成果は,屋外栽培よりも生育や収量は劣っていたものの,室内でイネをまともな形で実らせたという点でおそらく世界初の例だと思われる(11)11) A. Yamazaki, H. Tsuchiya, H. Miyajima, T. Honma & H. Kan: Acta Hortic., 580, 177 (2002)..また,2005年に設立されたオランダのIsoLife社はEspasと呼ばれる閉鎖系人工気象室内で作物や野菜を栽培し,ほぼ100%の標識率で13Cあるいは15N標識した種子の作成に成功しており(12, 13)12) L. Lam, R. Soong, A. Sutrisno, R. de Visser, M. J. Simpson, H. L. Wheeler, M. Campbell, W. E. Maas, M. Fey, A. Gorissen et al.: J. Agric. Food Chem., 62, 107 (2014).13) A. Gorissen, N. U. Kraut, R. de Visser, M. de Vries, H. Roelofsen & R. J. Vonk: Food Chem., 127, 192 (2011).,2017年1月現在でブロッコリー,トウモロコシ,イネ,小麦の種子,トマト果実,ジャガイモ塊茎などがカタログに掲載されている(https://isolife.nl/products/).今後もこういった人工栽培施設内での栽培対象が広がり,成長丈が高く栽培期間が長期に及ぶ作物にも拡張されると期待できる.一方で,光環境だけを考えても圃場と同じ室内環境を確保することは現状では難しく,圃場栽培の作物を圃場で解析することの重要性は依然として変わらない.たとえば朝日と夕日とでは代謝の活性に異なる影響を与えるし(14)14) F. A. Brooks: Bot. Rev., 30, 263 (1964).,温湿度の周期変化,風向きによるガス交換の変化や物理的な作用も含めて,室内実験系で野外環境を再現することは困難である.さらにこれらの非生物的な環境要因に加えて,圃場では植物を中心にした多様な生物間相互作用も展開している(15, 16)15) 池田成志,鶴丸博人,大久保 卓,岡崎和之,南澤 究:化学と生物,51, 462(2013).16) S. C. M. Van Wees, S. Van der Ent & C. M. J. Pieterse: Curr. Opin. Plant Biol., 11, 443 (2008)..
従来の科学研究の王道である実験室型アプローチでは,仮説を検証するために不要な環境要因を極力排除し,精緻な代謝メカニズムに迫りながら,要因同士の因果関係を明確にすることができる.一方,現場型のアプローチでは,圃場の環境多様性に対応した成分多様性の変化を概観することができる(図2図2■実験室型のアプローチと現場型のアプローチ).環境要因や代謝経路同士の因果関係にブラックボックスがあっても,観測された成分バランス変化に再現性や規則性があれば,育種・栽培技術の開発の指標となる可能性もある.実用的な栽培技術を開発するための研究戦略を理論的に構築するには,双方の情報の統合と相補的な取り組みが必要である.実際にいくつかのグループによって,温室や屋内実験と圃場実験両面からの研究が進められている(17~20)17) S. Moschen, S. Bengoa Luoni, J. A. Di Rienzo, M. P. Caro, T. Tohge, M. Watanabe, J. Hollmann, S. González, M. Rivarola, F. García-García et al.: Plant Biotechnol. J., 14, 719 (2016).18) S. Bernillon, B. Biais, C. Deborde, M. Maucourt, C. Cabasson, Y. Gibon, T. H. Hansen, S. Husted, R. C. H. de Vos, R. Mumm et al.: Metabolomics, 9, 57 (2013).19) S. Witt, L. Galicia, J. Lisec, J. Cairns, A. Tiessen, J. L. Araus, N. Palacios-Rojas & A. R. Fernie: Mol. Plant, 5, 401 (2012).20) D. R. Guevara, M. J. Champigny, A. Tattersall, J. Dedrick, C. E. Wong, Y. Li, A. Labbe, C. L. Ping, Y. Wang, P. Nuin et al.: BMC Plant Biol., 12, 175 (2012)..まだ農作物での実施例は少ないが,今後このような試みは増えていくと予想される.Gozzoらの総説では,植物の全身獲得抵抗性(Systemic Acquired Resistance; SAR)にかかわるシグナル代謝物や抵抗性誘導剤による代謝変化についての研究例が広く紹介されている(21)21) F. Gozzo & F. Faoro: J. Agric. Food Chem., 61, 12473 (2013)..SARの発見から50年以上を経て多くの研究成果が出ているにもかかわらず,農業現場ではこれらの知見を活かした病害コントロールにさほど関心がないという問題についても興味深い考察があり,圃場での成功例を示すことの重要性を議論するとともに,実験室と現場とのギャップを埋めるための試みについても言及されている.