解説

NMRによる実践的な農業メタボロミクス研究に向けて

Proposal for Practical Application of Field Metabolomics

関山 恭代

Yasuyo Sekiyama

農業・食品産業技術総合研究機構食品研究部門

池田 成志

Seishi Ikeda

農業・食品産業技術総合研究機構北海道農業研究センター

冨田

Satoru Tomita

農業・食品産業技術総合研究機構食品研究部門

Published: 2017-05-20

農産物や食品に含まれる成分の多様性は、栽培現場から食卓に至るまでの環境の多様性を反映して変化し,ヒトの健康やヒトを取り巻く生態系の物質循環にも影響すると考えられる.メタボロミクスはサンプル中の成分多様性を包括的に検出するために有効な手段であり,分析機器の性能の向上や解析技術の発展に伴って,かつては曖昧な部分もあった成分多様性の概観をより高感度・高解像度で捉えることが可能になった.今後は,農業・食品産業現場の試料を対象としたメタボロミクスの需要がさらに増すと期待できる.本稿では,農業・栽培を中心に,現場関係者と連携したメタボロミクスを実施するにあたって必要と思われる確認事項を提案し,NMRによる農業メタボロミクスの実施例を紹介し,今後の展望を議論したい.

はじめに

サンプル内の代謝混合物(メタボローム)を一斉に検出し,多成分のバランス変化を可視化(代謝プロファイリング,成分プロファイリング)して試料の状態を捉える研究はメタボノミクス,メタボロミクスと呼ばれ,さまざまな分野に影響を与えるようになった.もともとのメタボロームの定義は「細胞内あるいは生体内の低分子代謝物の総体」とされ(1, 2)1) H. Tweeddale, L. Notley-McRobb & T. Ferenci: J. Bacteriol., 180, 5109 (1998).2) J. K. Nicholson, J. C. Lindon & E. Holmes: Xenobiotica, 29, 1181 (1999).,1990年代後半くらいから,メタボロームの構成要素である個々の代謝物を混合物のまま同定・定量するための計測技術や,必要な情報を可視化するためのデータマイニングなど,解析の方法論が開発されてきた(3, 4)3) 吉田欣史,久原とみ子,菊地 淳:ぶんせき,7, 371(2009).4) 関山恭代,近山英輔,菊地 淳:ぶんせき,2, 81(2012)..さらに先駆者らの尽力により,医療・創薬への応用を志向したバイオマーカー探索や,モデル生物を用いた遺伝子機能解明などのライフサイエンスをとおして,メタボロミクスの可能性が広く認識されるに至った.近年ではメタボロミクスで取り扱う試料は多岐にわたり,土壌や加工食品など,複数の生物や素材の複雑な混合系にまで解析対象が広がりつつある.農業研究や食品研究の分野では,見た目ではわからない農作物,農産物や食品の品質の違いについて,「成分の多様性の違い」「多成分の複合的な効果」を指標とする新たな評価軸を与えられると期待できる.メタボロミクスによる農産物や食品の解析については,本誌の解説(5)5) 及川 彰:化学と生物,51, 615(2013).や,バイオインダストリー誌の2015年特集号(フードメタボロミクスの最前線)などでも広く紹介されている(6)6) 福先英一郎:バイオインダストリー,32(10), 46(2015)..現在は,農場から食卓までの一連のフードシステム全体を対象とした利用が期待される,新たなメタボロミクスの発展期だと言えよう.野外環境や農業・食品産業の現場には,室内実験系では再現できない多様な環境要因がある(図1図1■農業・食品産業現場における包括的なメタボロミクスの概念).今後は農業・食品産業の現場から生じる試料を分析し,環境多様性と成分多様性との関係に迫る試みがさらに重要になると考えられる.しかし,メタボロミクスのための便利な解析ソフトウェアやデータベースが充実し(7, 8)7) T. Tohge & A. R. Fernie: Phytochemistry, 70, 450 (2009).8) J. J. Ellinger, R. A. Chylla, E. L. Ulrich & J. L. Markley: Curr. Metabolomics, 1, 28 (2013).,新規利用者のメタボロミクスへのハードルが下がっている一方で,機器分析や代謝解析の研究現場と農作物や食品の生産現場との間にはいまだに隔たりがあり,十分に連携しきれていないと感じる場面もある.質量分析(MS)装置や核磁気共鳴(NMR)装置など,いわゆる精密分析機器でμMスケール以下の成分変化を追跡する分析室内と,トン単位以上の量を扱いかつ多様な環境要因を考慮しなければならない農業・食品産業の現場との間には,互いにあまり気づいていない認識の違いもあるかもしれない.本稿では,フードシステムの起点となる農業・栽培(図1図1■農業・食品産業現場における包括的なメタボロミクスの概念太点線枠内)を中心に,現場関係者と連携したメタボロミクス研究において必要と思われる確認事項を提案し,筆者らが実施してきたNMRによる農業メタボロミクスの例を含めて当該分野の最近のトピックスを紹介し,今後の展望を議論したい.

図1■農業・食品産業現場における包括的なメタボロミクスの概念

現場試料を解析し,農産物・食品の成分多様性を形成する要因を調べ,直接的・間接的な品質の向上や健康科学への貢献などを目指す.

農業・食品研究におけるNMR法の利点

本題に入る前に,筆者らが実施しているNMR法によるメタボロミクスについて簡単に紹介する.NMR法は,主に分子の化学構造や物理的性質を解析する技術として用いられてきたが,以下の特性から,メタボロミクスのような多成分混合系の解析にも大いに活用できる.すなわちNMRメタボロミクスでは,1)搾汁液や発酵培養液,血液や尿などの代謝混合物を分離せずにそのまま計測できるため,試料の前処理が比較的容易である,2)試料を3~5 mm径の試料管に入れて計測するため分析システムを汚染せず,多検体試料について傾向を掴むための一次スクリーニングに適している,3)データベースに収録されていない未同定代謝物についても部分構造解析ができ,どのタイプの化合物かがわかる,4)液体試料のみならず,肉やチーズ,カットした野菜などの固形試料の計測も可能である(9)9) M. Valentini, M. Ritota, C. Cafiero, S. Cozzolino, L. Leita & P. Sequi: Magn. Reson. Chem., 49(Suppl. 1), S121 (2011).,5)装置の安定性が高くスペクトルの再現性が高いため,何年にもわたる追跡調査が可能である,などの利点がある.これらの特性は,多様な性質・形状を有する試料の大量分析や,年次変動のような長期の調査が必要となる農業・食品産業現場の試料の解析に向いていると言える.NMRメタボロミクスによる農産物や食品試料の解析については,Magnetic Resonance in Chemistry誌の2011年特集号において,品質評価,産地判別,栄養・機能性評価などの具体例が広く紹介されているほか,それ以降の例については筆者らの総説にもまとめてあるのでご参照いただきたい(10)10) 関山恭代,池田成志,冨田 理:バイオインダストリー,32(10): 10(2015).

現場試料を分析することの重要性

浜松ホトニクス株式会社が世界で初めてレーザー光を用いたイネの室内栽培に成功したのは1998年である.イネやダイズのような強光を要求する作物を室内環境で栽培することは難しく,浜松ホトニクスの成果は,屋外栽培よりも生育や収量は劣っていたものの,室内でイネをまともな形で実らせたという点でおそらく世界初の例だと思われる(11)11) A. Yamazaki, H. Tsuchiya, H. Miyajima, T. Honma & H. Kan: Acta Hortic., 580, 177 (2002)..また,2005年に設立されたオランダのIsoLife社はEspasと呼ばれる閉鎖系人工気象室内で作物や野菜を栽培し,ほぼ100%の標識率で13Cあるいは15N標識した種子の作成に成功しており(12, 13)12) L. Lam, R. Soong, A. Sutrisno, R. de Visser, M. J. Simpson, H. L. Wheeler, M. Campbell, W. E. Maas, M. Fey, A. Gorissen et al.: J. Agric. Food Chem., 62, 107 (2014).13) A. Gorissen, N. U. Kraut, R. de Visser, M. de Vries, H. Roelofsen & R. J. Vonk: Food Chem., 127, 192 (2011).,2017年1月現在でブロッコリー,トウモロコシ,イネ,小麦の種子,トマト果実,ジャガイモ塊茎などがカタログに掲載されている(https://isolife.nl/products/).今後もこういった人工栽培施設内での栽培対象が広がり,成長丈が高く栽培期間が長期に及ぶ作物にも拡張されると期待できる.一方で,光環境だけを考えても圃場と同じ室内環境を確保することは現状では難しく,圃場栽培の作物を圃場で解析することの重要性は依然として変わらない.たとえば朝日と夕日とでは代謝の活性に異なる影響を与えるし(14)14) F. A. Brooks: Bot. Rev., 30, 263 (1964).,温湿度の周期変化,風向きによるガス交換の変化や物理的な作用も含めて,室内実験系で野外環境を再現することは困難である.さらにこれらの非生物的な環境要因に加えて,圃場では植物を中心にした多様な生物間相互作用も展開している(15, 16)15) 池田成志,鶴丸博人,大久保 卓,岡崎和之,南澤 究:化学と生物,51, 462(2013).16) S. C. M. Van Wees, S. Van der Ent & C. M. J. Pieterse: Curr. Opin. Plant Biol., 11, 443 (2008).

従来の科学研究の王道である実験室型アプローチでは,仮説を検証するために不要な環境要因を極力排除し,精緻な代謝メカニズムに迫りながら,要因同士の因果関係を明確にすることができる.一方,現場型のアプローチでは,圃場の環境多様性に対応した成分多様性の変化を概観することができる(図2図2■実験室型のアプローチと現場型のアプローチ).環境要因や代謝経路同士の因果関係にブラックボックスがあっても,観測された成分バランス変化に再現性や規則性があれば,育種・栽培技術の開発の指標となる可能性もある.実用的な栽培技術を開発するための研究戦略を理論的に構築するには,双方の情報の統合と相補的な取り組みが必要である.実際にいくつかのグループによって,温室や屋内実験と圃場実験両面からの研究が進められている(17~20)17) S. Moschen, S. Bengoa Luoni, J. A. Di Rienzo, M. P. Caro, T. Tohge, M. Watanabe, J. Hollmann, S. González, M. Rivarola, F. García-García et al.: Plant Biotechnol. J., 14, 719 (2016).18) S. Bernillon, B. Biais, C. Deborde, M. Maucourt, C. Cabasson, Y. Gibon, T. H. Hansen, S. Husted, R. C. H. de Vos, R. Mumm et al.: Metabolomics, 9, 57 (2013).19) S. Witt, L. Galicia, J. Lisec, J. Cairns, A. Tiessen, J. L. Araus, N. Palacios-Rojas & A. R. Fernie: Mol. Plant, 5, 401 (2012).20) D. R. Guevara, M. J. Champigny, A. Tattersall, J. Dedrick, C. E. Wong, Y. Li, A. Labbe, C. L. Ping, Y. Wang, P. Nuin et al.: BMC Plant Biol., 12, 175 (2012)..まだ農作物での実施例は少ないが,今後このような試みは増えていくと予想される.Gozzoらの総説では,植物の全身獲得抵抗性(Systemic Acquired Resistance; SAR)にかかわるシグナル代謝物や抵抗性誘導剤による代謝変化についての研究例が広く紹介されている(21)21) F. Gozzo & F. Faoro: J. Agric. Food Chem., 61, 12473 (2013)..SARの発見から50年以上を経て多くの研究成果が出ているにもかかわらず,農業現場ではこれらの知見を活かした病害コントロールにさほど関心がないという問題についても興味深い考察があり,圃場での成功例を示すことの重要性を議論するとともに,実験室と現場とのギャップを埋めるための試みについても言及されている.

図2■実験室型のアプローチと現場型のアプローチ

目的を明確にし,将来的には双方の情報統合と相補的な取り組みが新たな農業技術開発につながると期待できる.

研究現場と栽培現場との連携のための確認事項

材料の調製や輸送などの実務的な観点において,農業・食品産業の現場担当者とメタボロミクス研究者の連携が非常に重要である.メタボロミクスを実施する分析現場担当者の視点から留意すべき項目については,ESI友の会のウェブサイト(https://sites.google.com/site/esitomonokai/)で公開されているプロトコール集「実践的メタボローム分析プロトコール~イチから始めるメタボローム分析」に,実例とともにわかりやすく解説されている.第2部「農作物のサンプリング方法・栽培計画法」の章では,播種設計からサンプリング法の詳細,試料を扱う際の注意点なども解説されているので,これから圃場作物の解析をしようという方はぜひご一読いただきたい.またBiaisらは,圃場または温室で作物を収穫してから保存,凍結,運搬などを経て分析室に持ち込みメタボローム解析を実施するまでの試料の取り扱いについて,詳細に紹介している(22)22) B. Biais, S. Bernillon, C. Deborde, C. Cabasson, D. Rolin, Y. Tadmor, J. Burger, A. A. Schaffer & A. Moing: Methods Mol. Biol., 860, 51 (2012)..収穫の時間帯,試料の代表性を担保するためのサンプリング法,液体窒素を用いた凍結方法,ドライアイス量の目安,梱包や運搬の方法など,各過程における注意点が理由とともに丁寧に解説されている.メロンの例が中心の内容であるが,ほかの作物を扱ううえでも一般的な留意事項として認識しておくべき項目がほとんどなので,ぜひ目を通しておきたい.また,多様な自然環境におけるメタボロミクスについてはMorrisonらの総説に報告書作成時の基本的な記載事項がまとめてあり,実験デザインの考案に参考になるほか(23)23) N. Morrison, D. Bearden, J. G. Bundy, T. Collette, F. Currie, M. P. Davey, N. S. Haigh, D. Hancock, O. A. H. Jones, S. Rochfort et al.: Metabolomics, 3, 203 (2007).Metabolomics誌2009年の環境メタボロミクス特集号にも多くの実例が紹介されている(24)24) M. R. Viant: Metabolomics, 5, 1 (2009)..あとは現場で割ける人員や時間,作物の種類や目的に応じて,簡易化や省略が可能な工程があれば効率化し,試料と目的に応じたより現実的な方法を検討することが望ましい.収穫後に凍結せずに貯蔵試験を行う場合や,搾汁や発酵といった加工が加わる場合にはまた別途注意が必要であるが,これらの解説は別の機会に譲りたい.

また,分析担当者は必ず生産現場に足を運び,それぞれの現場の実情に配慮した連携体制を構築することが効果的な共同研究につながると考えられる.たとえば種子や種イモなどの種苗,肥料などの発注や準備期間も考慮し,遅くとも圃場設計の段階までには栽培担当者と打ち合わせを行いたい.適切なサンプリングを行うためには,分析担当者も追肥,農薬散布などの圃場管理作業を把握しておく必要がある.また,データ解析に必要となる栽培試験中や収穫後の調査項目(たとえば品種,肥料や農業資材の種類,病虫害抵抗性の強弱などの定性的データや,肥料や農業資材の施用量,収量,病害虫の被害程度,収穫物の官能評価データなどの定量的データ)に抜けがないように,事前によく相談しておく.さらに,栽培試験期間中の気温,雨量,日照,土壌特性データなどの環境情報,草丈や重量などの一般的な生育調査など,農業試験としての基礎データが取得可能か現場担当者に確認しておくとよい.

NMRによる農業メタボロミクスの実施例

次に,筆者らが実施してきたNMRによる農業メタボロミクスの例を紹介する.メタボロミクスで扱う1H-NMRスペクトルは個々の成分のスペクトルの総和であり,そこには試料から抽出されたすべての成分の複合的な情報が含まれる.図3(1)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例に農産物スペクトルの糖シグナル領域の例を示した.横軸の化学シフトやシグナルのカップリングパターンは成分の化学構造を反映し,縦軸のシグナル強度は成分の量を反映する.また,含まれる金属,タンパク質などの高分子,試料液のpHなどの影響でもシグナル形状が変化するため,多彩な試料の特性を表現していることになる.解析の流れとしては,さまざまな現場試料のNMRスペクトルを収集し(図3(2)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例),各化学シフトにおけるシグナル面積値を変数として多変量解析を行い,試料をグループ分けする(図3(3)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例).さらにローディングプロットなどの解析.あるいは調査項目によって分散分析や相関解析を行い,各試料を特徴づける成分を抜き出す.

1. ジャガイモ疫病抵抗性関連代謝マーカー探索の試み

ジャガイモ疫病はジャガイモ栽培における最重要病害であり,主に抵抗性品種の育種により対応されてきた.しかしながら,疫病菌は空気感染するため圃場での接種試験が難しい,室内の接種試験では圃場での抵抗性が再現できない場合も多い,高い倍数性によりDNAマーカーを活用した効率的な育種が難しい,などの問題があった.そこで,圃場研究へのメタボロミクスの活用例として,ジャガイモ疫病抵抗性関連代謝マーカーの探索を検討した(25)25) S. Tomita, S. Ikeda, S. Tsuda, N. Someya, K. Asano, J. Kikuchi, E. Chikayama, H. Ono & Y. Sekiyama: Magn. Reson. Chem., 55, 120 (2017)..ジャガイモの葉(目視で病徴が見えていないもの)の1H-NMRスペクトルを主成分分析に供したところ,用いたジャガイモ品種のスペクトルは,7月中旬頃になると抵抗性の強弱でグループ分けできることがわかった(図3(3)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例上段).この頃には圃場で感受性品種に病徴が見え始めるため,病原菌が活発化してくるとジャガイモの葉において抵抗性に対応した代謝変化が起こるものと考えている.また,抵抗性の強弱を反映する成分の一つはリンゴ酸であったため,さらに簡便な抵抗性の識別法について検討した.NMRは装置自体が高額なうえ,解析にも経験が必要なため,栽培現場での活用を考えるにはより簡単な方法に落とし込むことが重要である.今回は市販されている酵素キットでジャガイモの葉に含まれるl-リンゴ酸の特異的定量を試み,簡単な酵素法でも抵抗性の識別が可能であることが示唆された.

一方で,リンゴ酸含量に品種間差が見える頃から1週間も経てば,目視や無人航空機(UAV)による空撮画像からも疫病抵抗性を識別できる(26)26) S. Sugiura, S. Tsuda, S. Tamiya, A. Itoh, K. Nishiwaki, N. Murakami, Y. Shibuya, M. Hirafuji & S. Nuske: Biosystems Eng., 148, 1 (2016)..そこで,メタボロミクスを活用する意義がより大きい場面として,検定が難しい地下病害の影響を地上部の成分プロファイルから評価することを考えた.

2. ジャガイモの葉の抽出物によるそうか病菌の影響評価

ジャガイモそうか病は,収穫物である地下部の塊茎(イモ)にかさぶた状の病斑を生じる病害で,発生により生食および加工用途としての商品価値を著しく損なうが,経済性に見合う有効な防除法はいまだにない.また,そうか病は地下部にのみ病徴が現れるため,塊茎を掘り起こして収穫するまでその被害状況を把握することは困難である.そこで健全圃場およびそうか病汚染圃場で栽培したジャガイモを対象に,地上部の葉を使ったメタボロミクスを行い,早期のイモの品質予測や栽培環境の改善の指標となりうる代謝変動を見いだすことを目標とした.塊茎形成初期(そうか病発症前)に採取した葉の1H-NMRスペクトルをPLS判別分析に供したところ,そうか病汚染圃場で栽培したジャガイモの葉にはギ酸が多く,健全圃場で栽培したジャガイモの葉にはクエン酸が多い傾向が見られた.この傾向は,調査した品種のそうか病抵抗性の強弱によらず同様に見られ,クエン酸とギ酸の量比(クエン酸量/ギ酸量)を見ることで,健全圃場およびそうか病汚染圃場の差異を精度よく検出できることがわかった(27)27) 関山恭代,冨田 理,小野裕嗣,池田成志,浅野賢治,小林 晃,小林有紀:特願2015-109720(2015).図3(4)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例上段).今回見られた代謝変動は圃場のpHや化学成分組成などの土壌特性,栽培条件,地理的要因などにより変化する可能性があるため,引き続き複数圃場での調査や年次間差の確認を行っていく予定である.

3. 気候変動がイネの代謝に及ぼす効果

今後予想される大気CO2濃度の上昇や温暖化は,作物の収量だけでなく品質にも大きな影響を及ぼす.そこで筆者らは,このような気候変化に伴うイネの代謝変化を調べ,米の品質変化の予測や適応技術の開発に貢献したいと考えている.農業環境変動研究センターでは,屋外の開放系圃場に差し渡し17 mの正八角形のリングを設置し,チューブから二酸化炭素を放出して区画内のCO2濃度を周辺の外気よりも約200 ppm高く(約590 ppm)制御している(http://www.niaes.affrc.go.jp/outline/face/).これは,IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の気候変動シナリオで今世紀の半ばに予想されるCO2濃度であり,このような圃場環境操作実験を開放系大気CO2増加(free air CO2 enrichment, FACE)実験と呼ぶ.FACE区と対照区からサンプリングしたコシヒカリについて成分プロファイルを調べたところ,FACE区ではスクロースの割合が多くまた葉身と比べて葉鞘ではギ酸が多いなどの傾向が見られた.環境変化に対する代謝応答の程度はサンプリング時期や年次間で変わることがわかったので,引き続き解析を進めている.また,植物体内の成分変化と植物共生微生物の変動は密接に関係している可能性があり,実際に同時期に採取したイネの微生物多様性解析でも葉身と葉鞘とに違いが見られている(28)28) S. Ikeda, T. Tokida, H. Nakamura, H. Sakai, Y. Usui, T. Okubo, K. Tago, K. Hayashi, Y. Sekiyama, H. Ono et al.: Microbes Environ., 30, 51 (2015)..イネ以外の作物を含め,成分多様性と微生物多様性の関係についても引き続き調査を進めたいと考えている.

4. NMRの利点を活用した市販りんごの成分プロファイリング

NMRメタボロミクスの利点として成分の構造情報が得られることを上述した.その一例として市販りんごの解析を紹介する.青森県産のりんご3品種とニュージーランド産のりんご3品種について,1H-NMRスペクトルを計測し主成分分析を行ったところ,産地の違いによる分離が見られることがわかった(図3(3)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例下段).ニュージーランド産のりんごを特徴づける成分は2-メチルリンゴ酸であり,一方,青森県産りんごを特徴づける最も重要な成分は,1.26 ppmの未同定シグナルであった.

この未同定シグナルは,二次元NMRスペクトルを計測して糖アルコールであることが予想されたため,活性炭カラムクロマトグラフィーにより精製した(29)29) S. Tomita, T. Nemoto, Y. Matsuo, T. Shoji, F. Tanaka, H. Nakagawa, H. Ono, J. Kikuchi, M. Ohnishi-Kameyama & Y. Sekiyama: Food Chem., 174, 163 (2015).図3(4)図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例下段).このように,構造の当たりをつけて精製法を選べることは,NMR法を活用する最大のメリットである.目的のシグナルが大きく出るフラクションを集めて構造解析を行ったところ,この成分はL-ラムニトールであることがわかった.産地の違いによる代謝プロファイルの違いについては,栽培地の環境や栽培方法,貯蔵期間,流通過程などさまざまな要因が考えられる.これらの各種要因と代謝との詳しい関係については,引き続き検討が必要である.

以上,筆者らが実施してきた農業メタボロミクスの例を紹介した.今後は病害防除や収穫物の生産性向上効果を有する肥料,土壌改良資材,育苗培土,栽培条件などを選抜するための農業メタボロミクスの活用についても検討したいと考えており,現在その一部をスタートさせている.

図3■NMRによる農業メタボロミクスの流れと実施例

NMRスペクトルに含まれる成分多様性情報を活用し,試料を特徴づける成分群を特定する.図の一部に,文献2525) S. Tomita, S. Ikeda, S. Tsuda, N. Someya, K. Asano, J. Kikuchi, E. Chikayama, H. Ono & Y. Sekiyama: Magn. Reson. Chem., 55, 120 (2017)., 2727) 関山恭代,冨田 理,小野裕嗣,池田成志,浅野賢治,小林 晃,小林有紀:特願2015-109720(2015)., 2929) S. Tomita, T. Nemoto, Y. Matsuo, T. Shoji, F. Tanaka, H. Nakagawa, H. Ono, J. Kikuchi, M. Ohnishi-Kameyama & Y. Sekiyama: Food Chem., 174, 163 (2015).から引用し改変したものを用いた.

今後の展望

以上本稿では,農業・食品分野の現場関係者と連携したメタボロミクス研究において必要と思われる確認事項を提案し,筆者らによるNMRメタボロミクスの実施例を含めて当該分野のトピックスを紹介した.冒頭でも少し述べたが,現在メタボロミクスで扱われる試料は多岐にわたっており,これからは栽培現場から人体までの一連の物質循環を対象としたメタボロミクスの発展期だと考えられる.畑で栽培した作物の成分は,代謝を介した微生物との相互的な作用や,流通・加工におけるさまざまな環境要因の影響を受けながらその多様性を変化させ,ヒトの体までつながっている(図1図1■農業・食品産業現場における包括的なメタボロミクスの概念).このうち,先行して情報が充実しているのは植物(農作物,農産物)試料とヒト試料(血液や尿など)であり,中間の加工・調理についても今後強化をはかる必要があると考えられる.食事とヒトの健康に関するニュートリメタボロミクスについても多くの総説があり,実践例や現在の問題点,将来展望などについて紹介されている(30)30) R. Llorach, M. Garcia-Aloy, S. Tulipani, R. Vazquez-Fresno & C. Andres-Lacueva: J. Agric. Food Chem., 60, 8797 (2012)..自然環境や食物を含む生態系の一連の物質循環にかかわる有機化合物(場合によってはミネラルも含む(31)31) D. S. Wishart: Trends Food Sci. Technol., 19, 482 (2008).)について解析し,“多成分としての挙動や複合的な効果”を解明することは,今後ますます重要になると考えられる.そこから,農産物・食品成分の多様性を形成する環境要因の解明や,栽培条件により農作物を健康に保ち,貯蔵特性や加工特性,官能特性や健康機能特性を向上させる技術の開発など,農学研究や食品研究がそれぞれ単独では不可能であった新たなサイエンス,テクノロジーの創出につながることを期待したい.

Acknowledgments

本稿で紹介した研究の一部は,農水省委託プロジェクト研究「国産農産物の多様な品質の非破壊評価技術の開発」(Y.S.),科研費挑戦的萌芽研究(15K14643 to Y.S.)基盤研究C(24580029 to Y.S.),基盤研究B(15H04620 to S.I.),特設基盤研究B(15KT0037 to S.I.)の助成により遂行されました.農業メタボロミクスの実施例として紹介した研究は,北海道農業研究センター・浅野賢治主任研究員,津田昌吾上級研究員,岡崎和之主任研究員,野菜花き研究部門・染谷信孝上級研究員,九州沖縄農業研究センター・小林 晃上級研究員,小林有紀上級研究員,東北農業研究センター生産環境研究領域・長谷川利拡農業気象グループ長,高度解析センター・小野裕嗣生理活性物質チーム長,理化学研究所環境資源科学研究センター・菊池淳環境代謝分析研究チーム長,鹿児島県農業開発総合センター大隅支場・森 清文環境研究室長との共同研究により行いました.本稿の図で使用したイラストは,いらすとや様(http://www.irasutoya.com/)の素材を使用させていただきました.

Reference

1) H. Tweeddale, L. Notley-McRobb & T. Ferenci: J. Bacteriol., 180, 5109 (1998).

2) J. K. Nicholson, J. C. Lindon & E. Holmes: Xenobiotica, 29, 1181 (1999).

3) 吉田欣史,久原とみ子,菊地 淳:ぶんせき,7, 371(2009).

4) 関山恭代,近山英輔,菊地 淳:ぶんせき,2, 81(2012).

5) 及川 彰:化学と生物,51, 615(2013).

6) 福先英一郎:バイオインダストリー,32(10), 46(2015).

7) T. Tohge & A. R. Fernie: Phytochemistry, 70, 450 (2009).

8) J. J. Ellinger, R. A. Chylla, E. L. Ulrich & J. L. Markley: Curr. Metabolomics, 1, 28 (2013).

9) M. Valentini, M. Ritota, C. Cafiero, S. Cozzolino, L. Leita & P. Sequi: Magn. Reson. Chem., 49(Suppl. 1), S121 (2011).

10) 関山恭代,池田成志,冨田 理:バイオインダストリー,32(10): 10(2015).

11) A. Yamazaki, H. Tsuchiya, H. Miyajima, T. Honma & H. Kan: Acta Hortic., 580, 177 (2002).

12) L. Lam, R. Soong, A. Sutrisno, R. de Visser, M. J. Simpson, H. L. Wheeler, M. Campbell, W. E. Maas, M. Fey, A. Gorissen et al.: J. Agric. Food Chem., 62, 107 (2014).

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