Kagaku to Seibutsu 55(7): 439 (2017)
巻頭言
本と人工知能をめぐる実験
Published: 2017-06-20
© 2017 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2017 公益社団法人日本農芸化学会
2015年の初冬のことだった.ふと思いついてクラーク会館食堂で早めの昼食を済ませ,近くにある北海道大学生協の本屋に立ち寄った.大学生協の本屋なのに客は私一人だった.毎日来店する老教授を気遣ってか,専用(?)の椅子を用意してくれた.研究室に売り込みに来る書籍部の女性に,「これだけ留学生が増えているのだから,洋書をもっと充実させたらどうですか」と提案した.洋書は返品が効かず,紙ベースでの文化的鎖国が続いているようだ.それでも期間限定の洋書コーナーが用意されたが,相変わらず私一人のことが多かった.
2016年の新学期が始まると,教科書を購入するための新入生や学部移行生で賑わった.しばらくすると潮が引くように客足が途絶えるのだが,この年は違った.毎日複数の客が昼休みを本屋で過ごすようになり,1年続いた.「若者がスマホばかりで,本を読まなくなった」と嘆く声が時々聞こえてくる.「若者は素晴らしい.スマホも世界中の情報があっという間に手に入る良い時代になった」と反論するのだが,やはり心配ではある.私が教養部から農学部への移行を決心する際の決め手となったのが,坂口謹一郎著『日本の酒』,『世界の酒』である.文章の香りと誠実さが伝わってくる名文.時間や空間を超えた人物に,教えを受けなくても書物などを通じて接することができる.スパニッシュ様式の時計塔の下,北大農学部の暗い廊下を歩いていると,向こうから森 樊須教授がやってきた.若き日に耽読した鴎外を彷彿とさせる独特のオーラを放っていた.後年になって,同僚となった後継教授の一人に「文章はうまかったですか」と聞くと,「いやー.でも僕らの研究はプロの仕事だと云っていたよ」.何だか樊須先生が好きになった.
学問のことを考えた場合,人工知能(AI)は計り知れない恩恵を学ぶ者に与えてくれる可能性がある.ディープラーニングをものにしたAIの登場は画期的で,うまくすれば人類を,ある種の軛から解放する方向に向かわせることができるかもしれない.「シンギュラリティ」への恐怖よりも,思い描いていた21世紀の情景に近づいてきたという嬉しさのほうが勝る.世界には解決すべき問題が山積している.フロンティアが残っている化学と生物の境界領域で,AIの支援で立案された戦略(ロジック),本(読書で得られる感性),そして実験(実行)により,人類の福祉と生存に貢献する新たな仕事が生まれてくることを期待したい.
2017年の新学期にも,たくさんの新入生,移行生が生協の本屋に来ている.一カ月たっても客が引ける気配はない.どうやら私の実験は成功したようだ.