巻頭言

農芸化学の揺りかごを出て

Tadao Asami

浅見 忠男

東京大学大学院農学生命科学研究科

Published: 2017-07-20

現生人類であるホモサピエンスの誕生から広がりについては多様な説が唱えられているが,人類の揺りかごと呼ばれる東アフリカでおそらく15年万年前に突然変異で誕生したわれわれの祖先がアフリカを出て生存範囲を広げてきたとの説が有力である.しかしそれ以前の数百万年間にわたり,同様に東アフリカで生まれた人類(原人,ネアンデルタール人など)も世界に広がっていたことが世界各地で見いだされる遺骨から確認されている.しかし,現在では彼らを見ることはできない.現生人類祖先に関係する多くの類人猿,旧人類はなぜ死に絶える運命を受け入れざるをえなかったのであろうか.一方,一握りの数の個体から始まった現生人類種であるホモサピエンスが何度か遭遇したであろう絶滅の危機を乗り越え,生存への柔軟性を発揮し,ほかの人類種のみならずほかの生物種を圧倒し,現在のような繁栄を遂げることができたのはなぜであろうか.特に人類のなかで最もわれわれに近く,かつ年代的に現生人類と共存していたことが確認されているネアンデルタール人は,現世人類の生存領域の拡大に伴い姿を消したことが知られている.現生人類のDNA中にはネアンデルタール人の遺伝子が保存されているにもかかわらず(特に日本人はその保存率が高いことも最近になって報告されている).この理由については具体的な証拠に基づいたいろいろな学説が提出されており興味が尽きない.

現生人類がこのような広がりを見せた理由の一つとして,複雑な情報交換を可能にした「言語」能力の獲得に伴う情報通信網を発達させることで,多数が組織的に活動できるようなったためとの説がある.しかし,われわれだけでなく人間以外の生物も情報通信網をもち,さらにほかの人類は言語さえもっていたと考えられている.ユヴェル・ノア・ハラリは「ホモサピエンス全史」のなかで,われわれの繁栄の理由を虚構による協力によるものであるとし,膨大な数の見知らぬ人同士も,たとえば共通の神話を信じることによって協力できると述べている.信じ,伝承することができる新しい物語を紡ぎ出す能力をもったホモサピエンスが新しい土地に到着するたびに,ネアンデルタール人のみならず,地球上の各地に生存していた先住の人々は滅び去った.

もし,新しい能力をもった新しい人々が誕生したときに,われわれは彼らを歓迎できるのであろうか? いや,彼らはわれわれを仲間と認めてくれるのであろうか.これは人々が認めたがらないだけで,現時点でも起きている現象ではないだろうか.ネアンデルタール人の滅びも50年や100年のレベルではなく数万年のレベルで起きており,彼らは数万年後の絶滅を想像できていなかったと思われる.

さて,農芸化学である.日本独自の学問分野であり,人類が東アフリカの揺りかごから誕生したように,日本における食品製造や農業生産を基盤として生まれ育ってきた.現在ではその範囲を大きく広げているが,すでに新しい学問に生存の場所を狭められてはいないだろうか.幸いにAIにより将来なくなる職業リストの中には教育者や研究者は含まれていない.しかしながら,研究教育環境全般においてもすべての情報処理を迅速に行うことが求められている状況であり,これができないと実験も,論文発表も,教育も滞りつつある.

新しい人々,新しい能力を呼び込み共通の新しい農芸化学神話をつくり出すことが望まれている.