巻頭言

評価

吉村

Tohru Yoshimura

名古屋大学大学院生命農学研究科

Published: 2018-01-20

歳を取ってきたら何かを評価する仕事が多くなった.いや単に歳を取ったからではなく,世の中で「評価すること」自体が増えたのだろう.教育・研究に関して言えば,60年ほど前に提案されたIFが日本でよく議論されるようになったのは1990年代後半,学位授与機構が大学評価・学位授与機構へと改組されたのは2000年である.「評価すること」が増えた要因にはインターネットの発達が大きいと思うが,時代背景としては経済状況の悪化があるに違いない.余裕がなくなって「選択と集中」をしなければならない状況になれば,何らかの評価をする必要が生まれる.それは致し方ないし,また評価によって何かが改善されるならば結構な話だ.手元に『大学は生まれ変われるか国際化する大学評価のなかで』(喜多村和之著)という本があるが,2003年に出版されたこの本では教育・研究を如何に正しく評価するかが真摯に論じられている.このような大学評価が行われてきたのであれば,教育や研究の改善に大いに寄与したものと思う.

評価の先に賞罰があればなおのこと,ない場合でも,評価される側は世間の評判を恐れて良い点を取ろうとする.ご褒美を用意しなくても動いてくれるなら,評価するほうはありがたい.GPAを導入したら学生がよく勉強するようになったように感じる.彼らは,その真偽はともかく,GPAが悪いと就職に響くと思っている.

筆者が所属する学部で成績調査を行ったところ,いささか気になる学生がいた.GPAのスコアは高いのだが習得科目に脈絡がない.履修した科目からでは,この学生が将来何になりたいのかがわからない.学科名が農芸化学ではなくなったこともあるのだろうが,化学系の科目をあまり取っていない.本人に何らかの考えがあってのことならばよいが,聞くところではGPAでよいスコアがとれそうもない科目は,はなから選択しなかったらしい.カリキュラム改定の際に必修科目を増やすことになったが,それでよかったのか.もしかしたら,教員が思いもつかない発想で将来に備えている学生もいるかもしれない.

評価される側は評価に適うように動くのだから,評価する側の責任は重い.評価内容を決める者が現場を知らない場合,善かれと思って設定した評価でも,受ける側をとんでもない方向へ導くかもしれない.四半期ごとに数値で結果が出るようなものならば,評価内容もすぐに修正できる.しかし評価の影響が10年,20年経たなければ判断できない場合,判断してはいけない場合はどうなるのか.時代によって必要とされるものは変化する.たとえば,今は英語,英語と喧しく,講義を英語でやろうという話もある.けれども近い将来,実用に耐えうる自動翻訳機が出るとしたらどうだろうか.教科内容の理解の低下を招くリスクを負っても,講義を英語でやるべきだろうか.将来のことはもちろん誰にもわからない.だからこそ,教育・研究といういささかでも未来にかかわることを生業としている者には,学生が状況の変化に対応できるような能力を育むことを手助けする責務がある.

こと教育・研究に関する評価については,「する側」であっても「される側」であっても,評価内容が長期的視野に立って適切であるどうかを真摯に考えるべきだろう.考えた先の結論が「然り」であるならば結構なことだ.しかしそうでない場合は,その評価に適う行動をとるべきなのだろうか.そのとき依拠すべきは組織人としての立場だろうか,それとも教育・研究を生業とするものとしての知的誠実さだろうか.歳を取ってきたら思い煩うことも多くなってきた.