受賞者記事

研究者としての心がけ10か条

遠藤

Akira Endo

東京農工大学

バイオファーム研究所

Published: 2018-02-20

本稿では筆者が研究者として大切にしてきた「研究者としての心がけ10か条」を紹介したい.この10か条は筆者が三共(現第一三共)を退職して農工大学に移った頃に(1980年頃),友人から見せてもらい,自分でも気に入って大切にしてきたものだ.30年も前のことで,10か条の一部か大部分が変わっているかもしれない.古臭い話で,現在にはそぐわないかもしれないが,現在では忘れられている昔の良さを思い出すきっかけになればと思い紹介する.

1条 社会に役立つ,生きがいのあるテーマを選ぶ

科学者になりたいと思ったきっかけは野口英世の生涯を小学校で習ったことだ(初等科修身二.7.野口英世.文部省(著作兼発行者),1942年.pp. 24–31).ロックフェラー大学の構内には野口の胸像があり,留学中に2度訪れた.ニューヨーク郊外の霊園には野口の墓がある.留学中も訪ねたし,出張でニューヨークを訪れるときも野口の墓を訪れることにしていた.

大学1年生を終えた春休みに(1954年),ペニシリンを発見したフレミング博士の伝記が日本で出版された(L・ルドビッチ著,小松信彦訳.フレミング博士—ペニシリンの発見.法政大学出版局,1954年).フレミング博士はロンドンのセントマリー医科大学を卒業し,同医大に勤めていた.シャーレに忍び込んだアオカビからペニシリンを発見したことは有名だ.治療に用いるのに必要なペニシリンの純化が思うように進まなかったが,純化しないペニシリンを目の治療に利用して,効果を確認していた.フレミングがペニシリンの発見者として認められたのは,臨床効果,つまりヒトに有効であることを証明していたからであると,この本を読んで知った.不純なペニシリンで患者の目の治療をしていなかったら,フレミングはペニシリンの発見者として認められず,オックスフォード大学グループがノーベル賞を独占していた可能性がある.この経緯はスタチンの開発で大いに役立った.

2条 欧米の後追いをせず,彼らが不得手なことをねらう

大学3, 4年生の頃に読んだ,雑誌「化学の領域」に載った,化学者・真島利行の記事から学び,それ以来大切してきたものである.スタチンの研究でも,テーマを選ぶ段階で,この精神が生かされた.真島は以下のように述べている(真島利行.我生涯の回顧.化学の領域1954; 8: 1–11; 137–146).

「そこで私も何とかして少しは人の注目をひくような研究をしたいと思い,種々考慮の末,漆の主成分は如何なる物質であるかを思い立つに至った.之は仮に欧米人と同時に始めても,彼等に先んぜられることの少なき彼等には多少入手困難である,東洋特産品を研究すべきだと考へて,種々考慮の末漆に想到したのである」

「東洋特産品である物質を一足早く研究して居たから善かったものの,少し遅かったら,虎視眈々たる先進国の化学者によりて或はやられて居たかも知れない.(中略)この研究の御蔭で私は大正2年(1913)に櫻井賞を,次いで同6年(1917)に帝國学士院賞を授けられ,化学者として少しは其存在が認められるに至ったのは実に過分の僥倖であった」

3条 海外に視点をおく(日本を外からみる)

1966~68年に,ニューヨークの医科大学に留学して,米国では心疾患の死亡が圧倒的に多く,死因別死亡の1位であったことを知り,非常に驚いた.当時日本では脳卒中が死因別死亡の1位であった.この経験からコレステロール低下剤開発の発想が生まれた.

留学して,日本にいるときは気づかない日本の長所・短所が見えてきた.米国には世界中から肌の色が違い,宗教が違い,言葉も違う人たちが大勢集まり,仲良く生活していた.互いに他人の文化を認め合わないといけないとつくづく思った.米国が自然科学分野で圧倒的な強さを長年維持してきた理由の一端が見えた気がした.

4条 自然を師とし,現場から学ぶ

筆者は若い頃から,「科学者は自然の真似はできるが,自然を追い越すことはできない」と思い込んでいた.この考えは今も変わらず,これからも変わらないと思う.スタチンの開発だけでなく,ペクチナーゼ,歯垢形成阻害剤の開発でもそうであった.言い方を変えれば,化学者ではなく,微生物利用のことしか知らない筆者はそうするしか道がなかったとも言える.それで良かったと思う.臨床医は「患者から学べ」と言うが,新薬の開発に限らず「何が必要とされているか」を第一に優先すべきであると考える.独りよがりを避け,社会が必要とする研究を若い研究者に奨めたい.

5条 情報と流行に惑わされない

筆者の留学前の1960年代は分子生物学が盛んな時代で,大勢の若い研究者が核酸,タンパク質の生合成と代謝,核酸とタンパク質の関連性などの研究に没頭していた.筆者はこれらの分野を避けて,留学後には人気のない脂質を研究する考えであった.帰国後の研究テーマを探すための留学でもあった.留学で帰国後にどの脂質をどんなやり方で研究するかを決めるための留学であった.コレステロールの生合成の研究で1964年,コンラード・ブロッホ(1964年にノーベル生理学・医学賞,ハーバード大)の下に留学していた永井進(京大)とその後留学した小倉協三(東北大)から話を聞いていた.ブロッホ研を留学の第一候補にしていたが,ポスドクが満員で枠がないということで,アルバート・アインスタイン医科大学に変えた.

6条 科学者に徹する

筆者は高校までは将来の夢として科学者を目指していた.ところが,大学生になると科学者以外には向かないと思うようになった.それ以降科学者を目指して努力してきたと思う.それが三共でも認められ,ペクチナーゼの発見と商業化ができたと思う.これが評価されて,留学に必要な学位論文をまとめるために,数年間が与えられたと思う.のんびりしたいい時代であった.

7条 3Kを厭わない

3Kは「汚い」,「きつい」,「危険のこと」の3つを意味するようだ.カビを利用する研究は大方の人が嫌う汚い仕事であろう.他人(ヒト)が嫌がる「汚いもの」と「困難なもの」の中に重要な発見が隠されていることは,若い頃から知っていた.苦労しないと駄目だという当時の学校教育の影響だろうと思う.多くの科学者が敬遠する大きな研究テーマは,大きな成果が期待されるが,リスクも大きい.筆者は20代と30代前半までが大きな研究テーマに挑戦する時期だと思う.仮に失敗しても挽回できるから.

8条 学際領域に食い込む

新薬の開発は典型的な学際領域である.自分の好きなことを好きなようにやることは許されない.筆者が新薬の開発に挑んだのは「こんなにたいへんなこととは知らなかった」からであった.挑んだ以上,途中で投げ出すことは許されないこともわかっていた.もがいているうちに突破口が見えてくることもあった.臨床医に助けられたこともあった.専門の違ういろいろな研究仲間を持ってよかったと思う.

三共・中央研究所の生物学者がコンパクチンをラットに1週間投与しても血清コレステロールが全然下がらず,開発が中止された.この方法は世界中の標準的評価法で,この方法で効かなければ開発が中止されても致し方がなかった.私たちはこの結果に納得せず,効かない原因を解明しようとしたが,協力者がいなかった.おまけに所属した発酵研究所には動物を飼う施設(部屋)もなかった.そこで空いていた無菌室の一つを利用することにした.動物実験の経験がない研究者がラットに噛まれながら実験を続けた.無鉄砲ではあったが,若いからできたのだと思う.これも学際領域に食い込んだ一例と言えよう.

9条 足元を大切にする

隣の芝生が自分の芝生よりもきれいに見えるように,他人のやっていることが素晴らしく,自分のやっていることがつまらなく見えることがある.自分の足元には,もっと素晴らしい宝が隠されていることを絶えず忘れてはならない.目移りしてはならない.情報過多の現代は特に.

10条 仲間を選ぶ

新薬の開発にとって医師との交流が大事との考えから,仲間には医師が多い.共同研究をした仲間には,国内では山本章(当時阪大,MD),海外ではジョセフ・ゴールドスタインとマイケル・ブラウン(テキサス大,2人は1985年にノーベル生理学・医学賞を受賞)の3人(MD)がいる.3名とは現在も交流が続いている.山本との交流は,ゴールドスタインとブラウンの初期の業績を筆者が紹介した(遠藤章.生化学1976; 48: 301–307)のを,山本が読んで,訪ねて来たのが始まりだった.ゴールドスタインとブラウンとの交流の始まりは,筆者が1966年10月に,彼らが開発した培養細胞に対するコンパクチンの作用を見るために,培養細胞の分与を依頼したのがきっかけだった.ブロッホ研には留学できなかったが,その後コンパクチンの発見を機に交流が始まった(遠藤章.自然からの贈りもの.メデイカルレビュー社2006. p.239).交流はブロッホの死まで続いた.ダニエル・スタインバーグ(カリフォルニア大,MD)はスタチンの開発に異常なほど熱心で,彼の著書の取材が数回続いた.取材のためにシカゴのホテルの一室を借りたこともあった(Steinberg D. The Cholesterol Wars.Academic Press 2007).ギルバート・トンプソン(インペリアル大,MD)とも長い付き合いである.彼は金沢大学内科の馬淵宏とも親しい.筆者が受賞するたびに,著書やレビューを書いて祝ってくれているのも同氏である(Thompson G(編著); Pioneers of Medicine without a Nobel Prize. Imperial College Press 2012; Thompson G. Br J Cardiol 2008; 15: 294–295など).